泉美木蘭のトンデモ見聞録・第195回「玉川徹の詭弁を問い質す」 よしりん先生の方の感想で、玉川と同じようなことを言っている人の意見を述べてしまいましたが、やはりそれもワイドショーの影響なのでしょうか。それとも、その人の人格から来るものなのでしょうか。その人自身が完全な悪人ではないのだろうとは思うのですが。 社会主義とか共産主義には、人間はある種の憧れみたいなものがあって(みんなが秒度で、等しく扱われるという点で)、そこから自由の剥奪の危機という段階に達していない幼児が玉川徹なのかな、と思ってしまいます。 予言外れの物語で思い出すのは、旧約聖書の「ヨナ書」があります。 あらすじを記すと、ヨナというユダヤの予言者がアッシリアの都ニネヴェがその罪悪のために滅ぼされるという主の言葉を聞きます。しかし、ヨナはその言葉を伝えるどころが、恐れ、逃げだそうとしました。 しかし、嵐が起こり、船からほうり出され、魚に飲まれて呼びもどされて、結局ニネヴェへゆき、主の言葉を伝えました。その言葉を真に恐れたニネヴェの住民も王も、主の前にひざまづき、みづからの行いを改めたため、主は予言を撤回し、ニネヴェは救われました。 そのことに不服を申し立て、ニネヴェの郊外へと追いやられたヨナに、主はとうごまの木を成長させ、日光に苦しめられるヨナを救いました。しかし、その後、とうごまの木は虫によって食い荒らされ、再びヨナは日照りに苦しめられました。ヨナは死を望みましたが、それに対して主はこう述べました。 「お前は自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」 これで話はおしまいですが、なんかどっかで見た覚えのあるような場面ですね。恐らく、ほとんどの日本人は自分たちはニネヴェの住民であり、玉川徹はヨナだと思い込むのでしょうか?ヨーロッパ人のロックダウンの起源も、こんなところにあるような気もします。 しかし、この話は一見似ているようで非なる物語です。ヨナは玉川などとは異なり、予言を伝える責任の重さに葛藤はしており、むしろ、そのような重い役目はほかの人にお任せしますと逃亡しているのですから。言葉を発する、ということはそれがどのような人のものであれ、どんな立場であったとしても、重大なものであり、嘘か誠かでそ人物人のすべてを評価されてしまうわけですから。ニネヴェの住民も堕落や頽廃を恐れただけであり、経済停止をしたわけではないでしょう(信仰のために断食や粗末な服を着るというようなことはしてるようですが)。むしろ、自殺するほど苦しんでいる人がいたらそれを助けるようでなければ、主の怒りを買うのではありますまいか。 『新約聖書』では、イエスは安息日に姦通をしていた女を連れ出してきた学者たちに対して、「なんぢらのうち罪なき者この石をなげうて」と言って、群衆を立ち去らせ、女を許しましたが、こういう慈愛の目こそ、むしろ必要なのではないか、と自分は思います(勿論、羽鳥モーニングショーの場合は、それではすまされないでしょうが。彼らは自覚して罪を行ったのだから。煽りは確実に罪であり、犯罪です。) ちょっと極端な例え話を出しましたが、何とか主義とか、自粛とか、みんなで頑張ろうとか言う以前に、自分たちの行いを人のアドバイスで反省し、改善していくことと、本当に困っている人に慈愛の目を向けることとは何なのか、そんなことを考えてみたくなったので、あげてみました。聖書のこの話にしても、十分全体主義の話だな、と自分は感じたのですけれども。 木蘭さん、変なたとえをあげてしまってすみませんでした。 (少しミスがあったので修正しました)
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泉美木蘭のトンデモ見聞録・第195回「玉川徹の詭弁を問い質す」
よしりん先生の方の感想で、玉川と同じようなことを言っている人の意見を述べてしまいましたが、やはりそれもワイドショーの影響なのでしょうか。それとも、その人の人格から来るものなのでしょうか。その人自身が完全な悪人ではないのだろうとは思うのですが。
社会主義とか共産主義には、人間はある種の憧れみたいなものがあって(みんなが秒度で、等しく扱われるという点で)、そこから自由の剥奪の危機という段階に達していない幼児が玉川徹なのかな、と思ってしまいます。
予言外れの物語で思い出すのは、旧約聖書の「ヨナ書」があります。
あらすじを記すと、ヨナというユダヤの予言者がアッシリアの都ニネヴェがその罪悪のために滅ぼされるという主の言葉を聞きます。しかし、ヨナはその言葉を伝えるどころが、恐れ、逃げだそうとしました。
しかし、嵐が起こり、船からほうり出され、魚に飲まれて呼びもどされて、結局ニネヴェへゆき、主の言葉を伝えました。その言葉を真に恐れたニネヴェの住民も王も、主の前にひざまづき、みづからの行いを改めたため、主は予言を撤回し、ニネヴェは救われました。
そのことに不服を申し立て、ニネヴェの郊外へと追いやられたヨナに、主はとうごまの木を成長させ、日光に苦しめられるヨナを救いました。しかし、その後、とうごまの木は虫によって食い荒らされ、再びヨナは日照りに苦しめられました。ヨナは死を望みましたが、それに対して主はこう述べました。
「お前は自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」
これで話はおしまいですが、なんかどっかで見た覚えのあるような場面ですね。恐らく、ほとんどの日本人は自分たちはニネヴェの住民であり、玉川徹はヨナだと思い込むのでしょうか?ヨーロッパ人のロックダウンの起源も、こんなところにあるような気もします。
しかし、この話は一見似ているようで非なる物語です。ヨナは玉川などとは異なり、予言を伝える責任の重さに葛藤はしており、むしろ、そのような重い役目はほかの人にお任せしますと逃亡しているのですから。言葉を発する、ということはそれがどのような人のものであれ、どんな立場であったとしても、重大なものであり、嘘か誠かでそ人物人のすべてを評価されてしまうわけですから。ニネヴェの住民も堕落や頽廃を恐れただけであり、経済停止をしたわけではないでしょう(信仰のために断食や粗末な服を着るというようなことはしてるようですが)。むしろ、自殺するほど苦しんでいる人がいたらそれを助けるようでなければ、主の怒りを買うのではありますまいか。
『新約聖書』では、イエスは安息日に姦通をしていた女を連れ出してきた学者たちに対して、「なんぢらのうち罪なき者この石をなげうて」と言って、群衆を立ち去らせ、女を許しましたが、こういう慈愛の目こそ、むしろ必要なのではないか、と自分は思います(勿論、羽鳥モーニングショーの場合は、それではすまされないでしょうが。彼らは自覚して罪を行ったのだから。煽りは確実に罪であり、犯罪です。)
ちょっと極端な例え話を出しましたが、何とか主義とか、自粛とか、みんなで頑張ろうとか言う以前に、自分たちの行いを人のアドバイスで反省し、改善していくことと、本当に困っている人に慈愛の目を向けることとは何なのか、そんなことを考えてみたくなったので、あげてみました。聖書のこの話にしても、十分全体主義の話だな、と自分は感じたのですけれども。
木蘭さん、変なたとえをあげてしまってすみませんでした。
(少しミスがあったので修正しました)