指定感染症を一年延長・・・もう頭クラクラしてきちゃう・・・・|||/▲`щ|||バカ!バカ!バカァァァ… ああ、鳥たちはいいですよなあ。重力からも自由だし…。 きっと鳥の世界では、地を這う我々を嗤っていることでしょう。 「我々はもう籠の中の鳥ではありません。さっさと指定感染症から●はジュウシマツよ(外しますよ)」と・・・・。ϵ(ơΘơ)϶ピーピーピー リベラルにとって、「国家の目的」とは、「個人の自由・権利を尊重し守る公正な社会の実現」というところ? 『戦争論』のラスト、「我々を自由にしてくれる束縛は何か?」 『リベリベ』に、「党の批判さえしなければ、自由でいられるのに…」と、香港のデモを訝る中国人の意見がありましたし、 脱北者や悲劇の指揮者ケーゲルのように、「束縛」を失って真っ白になってしまったというのもありましたな。 それに、「ステイホーム」でも楽しくエンジョイ…みたいな、日本の畜群のような小小小小小市民の自由というのも・・・。 「自由」というのも、「グローバル基準」があるわけではなく、国によって、人によって、その「束縛」によって異なる? それに、自由を得ても、束縛、若しくは何の「目標」がなければ、地に足が付かず、ただひ漂流するだけで、 潮下で待ち構えていたアトキンソンのようなやつの餌に……。Ψ(|||Д|||)Ψグワワァァァ! ヘルベルト・ケーゲルと言えば、あのベートーヴェンの『田園交響曲』も素晴らしい演奏でしたが、 私はそれより、その数年前に東京都交響楽団を指揮したマーラーの『交響曲第7番』、 あのそれまでとはうってかわって、底抜けに明るい、というよりも如何にも表面的で空虚な勝利のフィナーレ?祝いの音楽?が、 実は“悲劇”だったという解答を示してくれたものとして、ここで取り上げたいと。 (勿論、それが正解かどうかは、あの世でマーラーやケーゲルに直接聞かないと…ですが) ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルテ』の引用(?)で始まる第4楽章、 とろけるように甘美な愛のセレナーデが奏され、後ろ髪を引くように終わる……。 その甘い甘い夜の夢をぶち壊すように、♪ドンドコドンドン ドンドコドンドコ…とティンパニが轟き、騒々しいフィナーレが開始される。 これはつまり、マルケ王の妻となったイゾルテと逢い引きしていたトリスタンが呪った、 「何もかもが明るみにされてしまう昼」の音楽なのかと。 所謂「太陽のテーマ」は繰り返されるたびに輝かしさを増し、「麗しい朝のテーマ」「あくせくした日常のテーマ」「急き立てるようなテーマ」を交え、 そして最後は「断頭台の一撃」のように「ザン!」と終わると。 …何を申し上げたいかといいますと、つまり「リベラルの失敗」とは、あの狂歌「白河の清きに魚も棲みかねて…」ということでは?と。 澄み潮だと何もかも丸見えで、魚の警戒心が高くなり、濁り潮の方が大抵の魚は活性が上がる、と言います。 昔見た海外ドラマで、子供たちに隠れて夜遊びしていた両親が、 「子供は何でも物事を白か黒でしか判断しないけど、大人はグレーが好きなのよ♡」と。 勿論それで、権力の憲法違反、不正、不作為、怠慢、腐敗を許していいという話にはなりません。(`´)9 我が国の憲法・法律・法の精神は、あまりにもルーズ過ぎると、よくわかりました。 このコロナ禍で、釣りがものすごくブームになったとかで、休日の釣り場、のんびり行くと入るところがナッシング……Σd(|||Д|||)アウッ!! そうなると大きな問題になってくるのが、漁港とのトラブル、駐車、そしてゴミ(コマセの残骸や立ち小便も)。 釣り禁止にすると、人が来なくなる…ということで、 外国のように釣りの料金をとって、その金で清掃等の資金に充てると。 もう釣り人のマナーやボランティアに任せきれないところまできたと。 要はそういうことでしょう。 ただ、日本のリベラル派の多くは偽物…というよりも、リベラルにはそもそもがそういう「潔癖過ぎる・合理的過ぎる危険性」も孕んでいるもので、 それが今回のコロナ禍で、個の弱い者たちによって、歪な形で噴出してしまったということでは?と。……(∵;)オオウゥ… ワーグナーの楽劇『ニーベルングの指環』で、 契約によって世界を支配する神々の長ヴォータンは、 その契約に縛られ、契約によって巨人族に与えた呪いの指環を取り戻せず、契約の奴隷となってしまった。 そしてそのヴォータンの支配から自由な存在である英雄ジークフリートの剣によって、その契約の文字を記した槍を折られてしまい、そして神々の黄昏を迎える。 しかし、その自由な英雄ジークフリートも人間の社会に入り、契約によって縛られ、弱点の背中を刺されて殺されてしまう……。 勿論、「モノの見方・考え方の一つ」としてなら、リベラルはアリだと思います。 ただ、これはリベラルに限らず何でもそうですが、 「弱い個」による「民主主義の病い」などで宗教化、イデオロギー化、原理主義化してしまえば、 リベラルだって凶暴化して破綻してしまう…ということではないかと。 本当の自由とは何か? それは「最も自由にしてくれる束縛は何か?」を追究する自由だったり?? それはつまり「冒険」ということでもあるかと。 そしてそれは国家にとってどこまでが都合が悪いものとなるか? そのギリギリのラインを追究するという冒険でもある?(|||"༗ ‧̣̥̇)ヌヌヌ… 国民の自由・権利を保証するのが国家の目的としても、国家が「死ね!それが国家の存続に必要だから」と言われれば、死ななければならないと。 国家と国民がそういう契約の下で成り立っているなら、国家と自由は相当な緊張関係にあるということかと。 だから自由を守ろうとするリベラルは、本質的に、国家否定・反権力の左翼と結びつき易い? …ですが、コロナ禍であっさりお上任せになるところ、やっぱり日本のリベラルは一体なんじゃらほい?? 権力を縛らずに国民の方を縛って、活力を削ぎ、生殺しにさせてどうする!? リベラルの誤作動??~(*Ꙩꙻ艸Ꙩꙻ*)オヨシニナッテ GO TOも止めさせて、いよいよ万能感に酔いしれて、ますます調子に乗って……(´∵٥) 「コロナ後のリベラル」は、その故障を直し、 そして無責任なマスコミの常軌を逸した暴走をも縛って、制御できるようになってもらいたいものですが…? ここでもう何度もコメントしたと思いますが、「自由には責任が伴われなければならない」と。 ……まだ未整理のまま、取りあえず思ったことを書き連ねてみました。失礼致しました。m(_ _(--;(_ _(--;mホントニホントニ… 浅はかな考えもあるでしょう。私は基本、自分の考えに執着はしないです。その方が楽しかろうから(飽きちゃうから?)♪(^^) これでも色々思考を楽しくして下さいましたと、感謝しておりまして。 さあ日曜日の道場、楽しませて頂きましょう!!୧( ᐖ) ᤤ✰⋆。♕:゚・*☽٩( ᐛ )وイヤッホ~イ
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指定感染症を一年延長・・・もう頭クラクラしてきちゃう・・・・|||/▲`щ|||バカ!バカ!バカァァァ…
ああ、鳥たちはいいですよなあ。重力からも自由だし…。
きっと鳥の世界では、地を這う我々を嗤っていることでしょう。
「我々はもう籠の中の鳥ではありません。さっさと指定感染症から●はジュウシマツよ(外しますよ)」と・・・・。ϵ(ơΘơ)϶ピーピーピー
リベラルにとって、「国家の目的」とは、「個人の自由・権利を尊重し守る公正な社会の実現」というところ?
『戦争論』のラスト、「我々を自由にしてくれる束縛は何か?」
『リベリベ』に、「党の批判さえしなければ、自由でいられるのに…」と、香港のデモを訝る中国人の意見がありましたし、
脱北者や悲劇の指揮者ケーゲルのように、「束縛」を失って真っ白になってしまったというのもありましたな。
それに、「ステイホーム」でも楽しくエンジョイ…みたいな、日本の畜群のような小小小小小市民の自由というのも・・・。
「自由」というのも、「グローバル基準」があるわけではなく、国によって、人によって、その「束縛」によって異なる?
それに、自由を得ても、束縛、若しくは何の「目標」がなければ、地に足が付かず、ただひ漂流するだけで、
潮下で待ち構えていたアトキンソンのようなやつの餌に……。Ψ(|||Д|||)Ψグワワァァァ!
ヘルベルト・ケーゲルと言えば、あのベートーヴェンの『田園交響曲』も素晴らしい演奏でしたが、
私はそれより、その数年前に東京都交響楽団を指揮したマーラーの『交響曲第7番』、
あのそれまでとはうってかわって、底抜けに明るい、というよりも如何にも表面的で空虚な勝利のフィナーレ?祝いの音楽?が、
実は“悲劇”だったという解答を示してくれたものとして、ここで取り上げたいと。
(勿論、それが正解かどうかは、あの世でマーラーやケーゲルに直接聞かないと…ですが)
ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルテ』の引用(?)で始まる第4楽章、
とろけるように甘美な愛のセレナーデが奏され、後ろ髪を引くように終わる……。
その甘い甘い夜の夢をぶち壊すように、♪ドンドコドンドン ドンドコドンドコ…とティンパニが轟き、騒々しいフィナーレが開始される。
これはつまり、マルケ王の妻となったイゾルテと逢い引きしていたトリスタンが呪った、
「何もかもが明るみにされてしまう昼」の音楽なのかと。
所謂「太陽のテーマ」は繰り返されるたびに輝かしさを増し、「麗しい朝のテーマ」「あくせくした日常のテーマ」「急き立てるようなテーマ」を交え、
そして最後は「断頭台の一撃」のように「ザン!」と終わると。
…何を申し上げたいかといいますと、つまり「リベラルの失敗」とは、あの狂歌「白河の清きに魚も棲みかねて…」ということでは?と。
澄み潮だと何もかも丸見えで、魚の警戒心が高くなり、濁り潮の方が大抵の魚は活性が上がる、と言います。
昔見た海外ドラマで、子供たちに隠れて夜遊びしていた両親が、
「子供は何でも物事を白か黒でしか判断しないけど、大人はグレーが好きなのよ♡」と。
勿論それで、権力の憲法違反、不正、不作為、怠慢、腐敗を許していいという話にはなりません。(`´)9
我が国の憲法・法律・法の精神は、あまりにもルーズ過ぎると、よくわかりました。
このコロナ禍で、釣りがものすごくブームになったとかで、休日の釣り場、のんびり行くと入るところがナッシング……Σd(|||Д|||)アウッ!!
そうなると大きな問題になってくるのが、漁港とのトラブル、駐車、そしてゴミ(コマセの残骸や立ち小便も)。
釣り禁止にすると、人が来なくなる…ということで、
外国のように釣りの料金をとって、その金で清掃等の資金に充てると。
もう釣り人のマナーやボランティアに任せきれないところまできたと。
要はそういうことでしょう。
ただ、日本のリベラル派の多くは偽物…というよりも、リベラルにはそもそもがそういう「潔癖過ぎる・合理的過ぎる危険性」も孕んでいるもので、
それが今回のコロナ禍で、個の弱い者たちによって、歪な形で噴出してしまったということでは?と。……(∵;)オオウゥ…
ワーグナーの楽劇『ニーベルングの指環』で、
契約によって世界を支配する神々の長ヴォータンは、
その契約に縛られ、契約によって巨人族に与えた呪いの指環を取り戻せず、契約の奴隷となってしまった。
そしてそのヴォータンの支配から自由な存在である英雄ジークフリートの剣によって、その契約の文字を記した槍を折られてしまい、そして神々の黄昏を迎える。
しかし、その自由な英雄ジークフリートも人間の社会に入り、契約によって縛られ、弱点の背中を刺されて殺されてしまう……。
勿論、「モノの見方・考え方の一つ」としてなら、リベラルはアリだと思います。
ただ、これはリベラルに限らず何でもそうですが、
「弱い個」による「民主主義の病い」などで宗教化、イデオロギー化、原理主義化してしまえば、
リベラルだって凶暴化して破綻してしまう…ということではないかと。
本当の自由とは何か?
それは「最も自由にしてくれる束縛は何か?」を追究する自由だったり??
それはつまり「冒険」ということでもあるかと。
そしてそれは国家にとってどこまでが都合が悪いものとなるか?
そのギリギリのラインを追究するという冒険でもある?(|||"༗ ‧̣̥̇)ヌヌヌ…
国民の自由・権利を保証するのが国家の目的としても、国家が「死ね!それが国家の存続に必要だから」と言われれば、死ななければならないと。
国家と国民がそういう契約の下で成り立っているなら、国家と自由は相当な緊張関係にあるということかと。
だから自由を守ろうとするリベラルは、本質的に、国家否定・反権力の左翼と結びつき易い?
…ですが、コロナ禍であっさりお上任せになるところ、やっぱり日本のリベラルは一体なんじゃらほい??
権力を縛らずに国民の方を縛って、活力を削ぎ、生殺しにさせてどうする!?
リベラルの誤作動??~(*Ꙩꙻ艸Ꙩꙻ*)オヨシニナッテ
GO TOも止めさせて、いよいよ万能感に酔いしれて、ますます調子に乗って……(´∵٥)
「コロナ後のリベラル」は、その故障を直し、
そして無責任なマスコミの常軌を逸した暴走をも縛って、制御できるようになってもらいたいものですが…?
ここでもう何度もコメントしたと思いますが、「自由には責任が伴われなければならない」と。
……まだ未整理のまま、取りあえず思ったことを書き連ねてみました。失礼致しました。m(_ _(--;(_ _(--;mホントニホントニ…
浅はかな考えもあるでしょう。私は基本、自分の考えに執着はしないです。その方が楽しかろうから(飽きちゃうから?)♪(^^)
これでも色々思考を楽しくして下さいましたと、感謝しておりまして。
さあ日曜日の道場、楽しませて頂きましょう!!୧( ᐖ) ᤤ✰⋆。♕:゚・*☽٩( ᐛ )وイヤッホ~イ