今号も配信、有難うございます。 さて、今号の感想を早速記しますが、バイデンに入れた投票者が実は反トランプでしかないとすると、かりにアメリカ合衆国が二大政党制ではなく、「第三政党」「第四政党」が存在し、票が割れていたら、トランプが勝利した可能性もあった、ということになるのかな、と思いました。 すなわち、民主制が二大政党制になるということは、人間の思考を是か非かの二者選択にし、単純化するということになり、選択の幅を狭めており、故に人を複雑な思考に堪え得なくする、ポジショントーク化させ、この主張には賛成できるけれども、この意見には首肯できないといった意見を排除し、「コロナウイルスは怖い物であり、ポリコレも当然だ」というようなふうに民衆の思想を導くのだろう、というようなことを考えてみました。 しかし、なぜ合衆国は二大政党制にしかならないのでしょうか?それだけ独立戦争で中央集権主義と、州権主義との対立を調整するのに大変だった、南北戦争の後遺症が大きかった、ということなのでしょうか?イギリスにはまだ保守党・労働党のほかに、自由党を継承する政党が残されているのに。 立憲君主派の政党とかあれば良かったのですが。「人民党」というのが南北戦争後に設立されたそうですが、民主党に吸収されてしまったようですし。セオドア・ルーズヴェルトが三選を目指して第三政党を作ったそうですが、結局ウッドロー・ウィルソンの民主党に漁夫の利を与えてしまったみたいです。社会党もあったようですが、潰されたようです。 とすると、日本でも立憲民主党が自民党の対立政党として(社会党の再現政党として)肥大化しているのも、単に自民党が気に入らないだけという理由であり、政策云々は二の次にされていて、これも臆病者たちが選んだ思考の単純化の成果なのかと思うと、人間は進歩するどころが退化しており、それを食い止めるには時には「人はどう生きるべきか」・「宇宙の真理とは何か」といったような哲学的な難題を与え、思索をすすめるしかない、と自分は思いました(でも考えることを嫌う人もいたりするのだから、悩ましい限りです。そんな飯にもならないことを考えるなら、今日一日の生活を憂うことの方が重要だ、それだって、「思索」をしていることには変わらないのですが)。 すこし抽象的な話になってしまい、すみませんでした。「コロ問い」、86ページまでは読むことができました。すでに地元の書店では発売前日なのに積み重ねられていますが、「エンド・オブ・ライフ」とかいう本の横で、しかもその宣伝の紙で目立たなくされています(自分も註文していたものも入手してしまいました)。本当に書店のすることはあくどい、と思いつつ、この逆境からヒットして欲しいと願います。それ以前に自分にとっては86ページ目以降をはやく読むことが專決です。 ハッシュタグ祭り、『#コロ問いを支持します』、自分も諒解しました。生放送ともども土曜日が楽しみです。
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今号も配信、有難うございます。
さて、今号の感想を早速記しますが、バイデンに入れた投票者が実は反トランプでしかないとすると、かりにアメリカ合衆国が二大政党制ではなく、「第三政党」「第四政党」が存在し、票が割れていたら、トランプが勝利した可能性もあった、ということになるのかな、と思いました。
すなわち、民主制が二大政党制になるということは、人間の思考を是か非かの二者選択にし、単純化するということになり、選択の幅を狭めており、故に人を複雑な思考に堪え得なくする、ポジショントーク化させ、この主張には賛成できるけれども、この意見には首肯できないといった意見を排除し、「コロナウイルスは怖い物であり、ポリコレも当然だ」というようなふうに民衆の思想を導くのだろう、というようなことを考えてみました。
しかし、なぜ合衆国は二大政党制にしかならないのでしょうか?それだけ独立戦争で中央集権主義と、州権主義との対立を調整するのに大変だった、南北戦争の後遺症が大きかった、ということなのでしょうか?イギリスにはまだ保守党・労働党のほかに、自由党を継承する政党が残されているのに。
立憲君主派の政党とかあれば良かったのですが。「人民党」というのが南北戦争後に設立されたそうですが、民主党に吸収されてしまったようですし。セオドア・ルーズヴェルトが三選を目指して第三政党を作ったそうですが、結局ウッドロー・ウィルソンの民主党に漁夫の利を与えてしまったみたいです。社会党もあったようですが、潰されたようです。
とすると、日本でも立憲民主党が自民党の対立政党として(社会党の再現政党として)肥大化しているのも、単に自民党が気に入らないだけという理由であり、政策云々は二の次にされていて、これも臆病者たちが選んだ思考の単純化の成果なのかと思うと、人間は進歩するどころが退化しており、それを食い止めるには時には「人はどう生きるべきか」・「宇宙の真理とは何か」といったような哲学的な難題を与え、思索をすすめるしかない、と自分は思いました(でも考えることを嫌う人もいたりするのだから、悩ましい限りです。そんな飯にもならないことを考えるなら、今日一日の生活を憂うことの方が重要だ、それだって、「思索」をしていることには変わらないのですが)。
すこし抽象的な話になってしまい、すみませんでした。「コロ問い」、86ページまでは読むことができました。すでに地元の書店では発売前日なのに積み重ねられていますが、「エンド・オブ・ライフ」とかいう本の横で、しかもその宣伝の紙で目立たなくされています(自分も註文していたものも入手してしまいました)。本当に書店のすることはあくどい、と思いつつ、この逆境からヒットして欲しいと願います。それ以前に自分にとっては86ページ目以降をはやく読むことが專決です。
ハッシュタグ祭り、『#コロ問いを支持します』、自分も諒解しました。生放送ともども土曜日が楽しみです。