希蝶 のコメント

 上記と関連して、雑文(駄文)を記します。

 とある漫画家の作で、ヒロインが自分も好きな人から平手打ちを食らわれたい、とライバルにジェラシーを感じるというネームを書いたところ、担当の編集者から「このヒロインの気持ちは屈折している、本当に好きだったら抱かれたいと思うはずだ」と言われ、そのことで、漫画家がはっとさせられたと述懐しています。成る程、と思いつつ、「でも人の愛情表現はそれぞれだよね、男の側でも女から叱咤激励されたいという願望もあるかもしれない」と自分は思ったりしました。自分も屈折しているのでしょうか?これこそ、オカマかな?上記の話からすると、民主制や共和制の崩壊を望む、「誰かに支配されたい」欲にもなり得ます。

 その行為の是非はさておいて(状況にもよると思いますが)、今の世の中では迂闊に暴力をふるうと犯罪になってしまうわけですが、フィリップ・マーロウの「強くなければ人は生きてゆけない。優しくなければ人は生きる資格がない」という優しさとか愛情とかは、実は好きな人に平手打ちを与えて叱責し、強くあるようにと覚醒させるようなものではないか、とも私は思いました。

 ゴルゴ13が「自分は臆病だから身を守ることができる」というふうに述べている「臆病」とは、今のコロナウイルスへの「臆病」とはわけが違うのではないか。それは「慎重」であって、ただの「臆病」は異なるのではないか、無謀な勇気を「匹夫の勇」というけれども、ボルソナロ大統領のはそうではなく、彼はただ心から国民を守りたい、社会生活を破壊したくないという真の意味の思いやりを持っていたから、勇気を出して行動できたのかもしれない。
 人は臆病ではなく、慎重だからこそ命を惜しみ、慎重だからこそ優しくあり、勇気を出して命をかける場所を知らねばならぬのだとも思うのです。

 芥川龍之介の作に「白」というファンタジーがあります。白という犬が、犬殺しに襲われた隣家の犬の黒を見殺しにした報いで、黒犬になってしまい、飼い主からも狂犬扱いされるという筋で、白はその贖罪として、勇敢な行動をとりつづけます。己が身を見るたびに、見殺しにしてしまった友、黒の姿を思い出すから。
 岡田とか玉川とか羽鳥たちも、夜の街の住人になってみればいい、そうすれば、嫌でも我が身を恥じることになり、死命を決して勇敢な行動をつづけた白の気持ちが分かるだろう、コロナウイルス云々で国民を煽動するよりももっと大事なことがあることにも気がつくだろう、「強さ」と「優しさ」の本当の意味が分かるだろう。現代の日本人も、命を惜しむこと、命を賭けることの本当の意味を振り返って欲しい。
 纏まりがなくなりましたが、こういう表現で締めさせていただきます。

 ということで、また木蘭さんの方は後回しなのですが、御諒承のほどを(何度も投稿し直してしまい、すみませんでした。これで納得します)。

No.120 41ヶ月前

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