東海ゴー宣道場への質問のつづきです。思い切って質問してみます。 よしりん先生ほか、師範のかたがたは、かなづかい問題について、どのようにお考えでしょうか?わたしは私的なメモには歴史的仮名遣いやいわゆる漢字の旧字体を用いていますが、そのようなものはわかりにくい、時代遅れで、アナクロなものなのでしょうか? かなづかいに限って言えば、わたしは、動詞の活用形を理解するのに、「行う」・「会う」などで「わ行というえおの活用」というよりは「行ふ」「会ふ」の「は行の活用」とした方が論理的に分かりやすいですし、語源や語の関連性を見て行くと、歴史的仮名遣いの方が理解しやすいです。 たとえば愛知県に「知立」というところがありますが、「知立」の歴史的仮名遣いが「ちりふ」だと理解しておくと、かつて「池鯉鮒」とも表記した理由が見えてくるし、「越南」が「ヱツナン」(すなわちウェツナン)、「回鶻」が「クヮイコツ」なら、それぞれ「ヴェトナム」や「ウィグル」(ウヰグル)との親和性が見えてくるのではないか、と感じるのです。それとも、言葉とは何となく読めれば良いもので、「ヴェトナム」も「ベトナム」とだけ記せれば良いものなのでしょうか? 断っておきますが、現代に歴史的仮名遣いをそのまま復活するのは無茶だと自分も思いますし、それを強要したり、押しつけたりするつもりもありません。自分の意見を主張するのならば、本を記せばいいのではないか、とも思いますし、そのようにも人から言われました(そのことも目標にしています)。 ただ、表記と単純に申しますが、このことによって、うまく言えないのですが、日本人から何か大切なもの、歴史の縦軸のようなものが失われたのではないか、という気もするのです。現代仮名遣いがここまで普及し、誰も疑問を感じないのだから、致し方がないのだとしても、このことは考えてみるべき問題ではないか、と個人的に思います。 漢字のことについても述べたいことはあるのですが、これ以上長々と記すのは良くないことなので、ここまでにします。このことは「道場」で討議すべき問題ではない、ということでしたら、ここだけの話にしてしまっても構わないです。
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東海ゴー宣道場への質問のつづきです。思い切って質問してみます。
よしりん先生ほか、師範のかたがたは、かなづかい問題について、どのようにお考えでしょうか?わたしは私的なメモには歴史的仮名遣いやいわゆる漢字の旧字体を用いていますが、そのようなものはわかりにくい、時代遅れで、アナクロなものなのでしょうか?
かなづかいに限って言えば、わたしは、動詞の活用形を理解するのに、「行う」・「会う」などで「わ行というえおの活用」というよりは「行ふ」「会ふ」の「は行の活用」とした方が論理的に分かりやすいですし、語源や語の関連性を見て行くと、歴史的仮名遣いの方が理解しやすいです。
たとえば愛知県に「知立」というところがありますが、「知立」の歴史的仮名遣いが「ちりふ」だと理解しておくと、かつて「池鯉鮒」とも表記した理由が見えてくるし、「越南」が「ヱツナン」(すなわちウェツナン)、「回鶻」が「クヮイコツ」なら、それぞれ「ヴェトナム」や「ウィグル」(ウヰグル)との親和性が見えてくるのではないか、と感じるのです。それとも、言葉とは何となく読めれば良いもので、「ヴェトナム」も「ベトナム」とだけ記せれば良いものなのでしょうか?
断っておきますが、現代に歴史的仮名遣いをそのまま復活するのは無茶だと自分も思いますし、それを強要したり、押しつけたりするつもりもありません。自分の意見を主張するのならば、本を記せばいいのではないか、とも思いますし、そのようにも人から言われました(そのことも目標にしています)。
ただ、表記と単純に申しますが、このことによって、うまく言えないのですが、日本人から何か大切なもの、歴史の縦軸のようなものが失われたのではないか、という気もするのです。現代仮名遣いがここまで普及し、誰も疑問を感じないのだから、致し方がないのだとしても、このことは考えてみるべき問題ではないか、と個人的に思います。
漢字のことについても述べたいことはあるのですが、これ以上長々と記すのは良くないことなので、ここまでにします。このことは「道場」で討議すべき問題ではない、ということでしたら、ここだけの話にしてしまっても構わないです。