希蝶 のコメント

 少し、ブログに対して批判的な意見を投稿してしまったことをお詫びします。自分も、前職の時は年金の申請を認められず、10万ほどの給金を当てにして、生活していた時もあったのです。
 だから、年金のために智慧を貸して下さった今の職場には非常に感謝しています。コロナウイルス対策については、大多数の反応と変わりはないですが。

 今号の感想です。
 ゴーマニズム宣言・第378回「ハンセン病に学ぶ【隔離】の悪法」
 癩病というと、「砂の器」とか、大谷善継の皮膚のはいった茶を石田三成が飲み干したとか、モーセなどの聖書の奇蹟あたりを思い浮かべてしまいますが、人間は人を見た目で判断し、差別するという悪習は古今東西変わりはないのだな、と思いました。そもそも、「癩」とか「かったい」とか「レプラ」という語を差別語扱いすること自体が、「めくら」・「おし」・「つんぼ」・「びっこ」と同じで、臭いものに蓋をしろ、的な思想のように感じます。たとえ、その言葉が差別的に聞こえても、その表現でないと表現できない概念はあるわけで、別の語をつくっても、それで人の心の偏見がなくなる、と思ったら大間違いでしょう。私の記憶が正しければ、「ハンセン氏病」とも言っていたような気もするのですが。とりあえず、ここではその用語でないとまづいようなので、ハンセン病と呼びます。

 確かに肌が崩れてゆく、という病気ははたから見たら恐怖ですし、感染するとなったら、どこか別の場所にいて欲しい、と願うのは当たり前なのかもしれないです。しかし、医学が発達し、治療薬ができた状態になってまで、隔離はおかしいと思います。不治であるなしにかかわらず、病に罹らない人間はいないわけで、子供のころにはやった「エンガチョ」を思わせます。病がある限り、こういう歴史は繰り返されるのでしょうか。このコロナ騒動でも、治療薬がないことを問題にする識者がおりますが、薬があっても、こういう悲劇があるのなら、コロナウイルス感染・陽性についてもあまり関係はなく、どうして人間は自分以外のもの、自分とは異なるものを「区別」したがるのか、「普通」であるかないかにこだわるのか、と不思議でなりません。「救癩」と銘打ってはいても、それは「偽善」でしょう。

 ハンセン病の場合、「隔離」ではなく、そこだけ世間とは異なる「別世界」なのだ、という考えもあるのかも知れませんが、やはり人間は社会や集団の中で暮らしてはじめて人間だと言えると思いますし、自分だけの存在するパラダイスは実はディストピアだった、という可能性もなきにしもあらずです。必要な事実を知らされずに、ただ夢の中で一人で暮らしている生活を、生きている、と言えるのでしょうか?情報は人と接することによってはじめて伝わるもので、その伝達する人の表情や仕草、動作や言い方によっても、同じ内容のものでも異なった印象を受けるのでしょう。「人は知らなくてもいい事実がある」というのと、「知らなければならぬ事実を知らぬままでいるのは果たして幸せなのか」ということは違う観点のことだろうと思います。

 放射線とか、本当に死に至るものだったらともかく、私たちは一度頭の中にこびりついてしまった偏見や先入観を払拭し、平等に接する必要性があるのではないのでしょうか。とは言え、それは仁徳のある人でも難しい、言うのはたやすく、行うはかたし、なんでしょうか。
 自分の精神障碍だって、尋常ではないとか、変わっている、おかしいと言われたこともたびたびで、聞き流すのも重要なのかな、と思っています。私の知人はそれを「特徴」というのですが、誰だって病に罹ると同時に、特徴を持っていると言えるのではないか、と言っておきます。自分は、「特徴」という言い換えにも抵抗感を感じるのですが。本質を隠しているだけで、実体をとらえていないから。
 ハンセン病にもコロナウィルスにも同様のことが言えるのではないか、としめておきます。

No.81 46ヶ月前

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