『慰安婦』、第9章まで読みました。 当時、『SAPIO』でリアルタイムで読んでいたものばかりですが、今になってあらためて読むと「すごい時代だったな」と感じると共に「人は同じ過ちを繰り返すんだな」ということが見て取れます。 第7章、「言論弾圧」を「言論封殺」と表現を変えられたのが印象的です。 43の市民団体の抗議は、『SPA!』に「廃刊」をちらつかせた女子大生や『あいちトリエンナーレ』の実行委員会に脅迫まがいの電話を変えた市民らと繋がるものがありますね。 先日の『ゴー宣道場』でも倉持師範が「SNSのおかげで、ネットでの抗議はコスパが良くなった」といったようなことをおっしゃっていましたが、今や権力者による「言論弾圧」のみならず民間による「言論封殺」が当たり前のように横行するようになりました。 第8章、あの良くも悪くも「伝説的」な『朝生』をこうして作品化して残されたというのは、大変に意義のあることだと思います。 若い読者にとっては「こんな偏向した番組が地上波で放送されていたのか!?」と驚かれるかもしれませんね。 今だったら、ネットの特定チャンネルでしか成立しないような内容でした。 あのヤギヒゲはどうしてるんだろう(笑) 本人が言ったように作品化されましたが、その結果、よもや自分がこれだけ戯画化されたものが今の世代にも読み継がれ、恐らく末代までの恥レベルで笑いものになってしまうとは思ってもいなかったでしょう。 それにしても「オレとは関係ないことだから 前の世代がやったことだから」ってすごい言葉ですね。 もしこの方に子供や孫がおられたとして、こんなことを自分が言われたらどのように感じるのでしょう? ひょっとしたら、身内の方からは「あの人と私たちは関係ない」って思われているかも(失礼)。 また、吉見義明が「強制連行は確認できていない」と認めた歴史的瞬間が描かれており、そして「良き観客」という言葉が用いられた(ひょっとして初出?)のも見逃せない内容でした。 そして何と言っても第9章。 私は大学で留年してしまっていたから、当時はまだ学生でした。 でも、社会人になり、現場で不満を抱えつつもこらえながら働き、一人前になって生活する身になれば分かる。 「人はみな広義の強制と制限された自由の中で生きている」「したがってその気になればかならず被害者になれる」――というゴーマンは、「全くその通りだ!」と我が意を得たりという思いです。 私などは非正規の身ですが、それも政府が新自由主義へと舵を切ったのが原因かもしれない。 そもそも山一証券などを含む金融破綻が原因か、さらに遡ればバブル時代の放蕩経営を放置していたことが原因か。 そっか、非正規は「被害者」か。 何しろ選択肢が奪われていて、極めて「不自由」な環境だったものな。 だったら、国に「心からの謝罪」を要求してもいいよな――な~んて。 木蘭先生によるアンチの心理の分析でも、「絶対弱者」というカードを振りかざし続けたいという人が紹介されていますが、それもいわば「被害者」であり続けたい、ということに近いのだろうと思います。 「被害者」という言葉、サヨクにとっても本人にとっても、ムチャクチャ利用しやすいのだなと感じました。 あと、トッキーさんの慰安所について書かれた記事の「追記」で明らかになった、毎日新聞が資料写真を貸し出さなかったという事実には驚きました。 私は毎日新聞を購読しているので、同紙が「公文書クライシス」というタイトルで、折に触れて「権力による公文書隠蔽・改竄・廃棄」の問題を追っているのを知っています。 その新聞本体が、「社の方針」という漠然とした理由だけで資料の貸し出しを拒む、というのは全く納得がいきません。 「第四の権力」たるマスコミとして矜持はあるのでしょうか。 可能であれば、毎日新聞に投書しようかと思います。 ウェブではなくて、封書の方がいいかな。
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『慰安婦』、第9章まで読みました。
当時、『SAPIO』でリアルタイムで読んでいたものばかりですが、今になってあらためて読むと「すごい時代だったな」と感じると共に「人は同じ過ちを繰り返すんだな」ということが見て取れます。
第7章、「言論弾圧」を「言論封殺」と表現を変えられたのが印象的です。
43の市民団体の抗議は、『SPA!』に「廃刊」をちらつかせた女子大生や『あいちトリエンナーレ』の実行委員会に脅迫まがいの電話を変えた市民らと繋がるものがありますね。
先日の『ゴー宣道場』でも倉持師範が「SNSのおかげで、ネットでの抗議はコスパが良くなった」といったようなことをおっしゃっていましたが、今や権力者による「言論弾圧」のみならず民間による「言論封殺」が当たり前のように横行するようになりました。
第8章、あの良くも悪くも「伝説的」な『朝生』をこうして作品化して残されたというのは、大変に意義のあることだと思います。
若い読者にとっては「こんな偏向した番組が地上波で放送されていたのか!?」と驚かれるかもしれませんね。
今だったら、ネットの特定チャンネルでしか成立しないような内容でした。
あのヤギヒゲはどうしてるんだろう(笑)
本人が言ったように作品化されましたが、その結果、よもや自分がこれだけ戯画化されたものが今の世代にも読み継がれ、恐らく末代までの恥レベルで笑いものになってしまうとは思ってもいなかったでしょう。
それにしても「オレとは関係ないことだから 前の世代がやったことだから」ってすごい言葉ですね。
もしこの方に子供や孫がおられたとして、こんなことを自分が言われたらどのように感じるのでしょう?
ひょっとしたら、身内の方からは「あの人と私たちは関係ない」って思われているかも(失礼)。
また、吉見義明が「強制連行は確認できていない」と認めた歴史的瞬間が描かれており、そして「良き観客」という言葉が用いられた(ひょっとして初出?)のも見逃せない内容でした。
そして何と言っても第9章。
私は大学で留年してしまっていたから、当時はまだ学生でした。
でも、社会人になり、現場で不満を抱えつつもこらえながら働き、一人前になって生活する身になれば分かる。
「人はみな広義の強制と制限された自由の中で生きている」「したがってその気になればかならず被害者になれる」――というゴーマンは、「全くその通りだ!」と我が意を得たりという思いです。
私などは非正規の身ですが、それも政府が新自由主義へと舵を切ったのが原因かもしれない。
そもそも山一証券などを含む金融破綻が原因か、さらに遡ればバブル時代の放蕩経営を放置していたことが原因か。
そっか、非正規は「被害者」か。
何しろ選択肢が奪われていて、極めて「不自由」な環境だったものな。
だったら、国に「心からの謝罪」を要求してもいいよな――な~んて。
木蘭先生によるアンチの心理の分析でも、「絶対弱者」というカードを振りかざし続けたいという人が紹介されていますが、それもいわば「被害者」であり続けたい、ということに近いのだろうと思います。
「被害者」という言葉、サヨクにとっても本人にとっても、ムチャクチャ利用しやすいのだなと感じました。
あと、トッキーさんの慰安所について書かれた記事の「追記」で明らかになった、毎日新聞が資料写真を貸し出さなかったという事実には驚きました。
私は毎日新聞を購読しているので、同紙が「公文書クライシス」というタイトルで、折に触れて「権力による公文書隠蔽・改竄・廃棄」の問題を追っているのを知っています。
その新聞本体が、「社の方針」という漠然とした理由だけで資料の貸し出しを拒む、というのは全く納得がいきません。
「第四の権力」たるマスコミとして矜持はあるのでしょうか。
可能であれば、毎日新聞に投書しようかと思います。
ウェブではなくて、封書の方がいいかな。