門下生の間の意見交換ということを述べましたので、よしりん先生のブログ「どこに民主主義があるっての?」(https://www.gosen-dojo.com/blog/25356/)や、トッキーさんが紹介している「道場は民主主義じゃない件で」(https://www.gosen-dojo.com/blog/25359/)についても記します。 私は同じ意見であっても、人間の意見には優劣があると思っています。自分の発言したことが人の心を動かさないのは、その人に魅力がないのか、行動に一貫性がないかといった短所があるのだろうということなのでしょう。第一次世界大戦の講和会議も参加国の利害が一致せず、戦勝国5ヶ国位で決めたようですし(後述するように、その内容が適切なものだった、ということは別にして)、その集団の頭脳にあたるトップが決断し、周囲を説得して実行させることは非常に肝要なことだろうと思います。 ただし、そのトップが自身を律し、自分を客観的に見る視座を持つことも要求されているわけで、先の講和会議なら、ドイツに法外な賠償金を求めたり、ルール地方の占領をおこなって、ドイツ経済を麻痺させたりするといった愚を犯すようなら、それは判断ミスとしか言いようがない、と言えるでしょう。トップは孤独だと言われますが、それはトップ自らが決断することの孤独さということなのではないか、と私は思います。そのために、参考意見として他者の考えを尋ねることも必要だ、ということであって、決してどの意見にも汎用性のある価値があり、同レベルにあるという意味ではないのです。 民主主義は衆愚政治に堕落すると言いますが、それはみんなの意見を平等に採り上げて、まとまりのないものを築き上げる危険性を指しており、さらに個人は個人の都合の良いようにしか考えられないので、トップを含め、広い視野から物を見て、決定することが大切なのではないか、と思うのです。それを独裁的だとか、民主主義の精神に反するとか狭い観点からしか物を述べられないのは、その人が狭い自分だけの空間に安居し切ってしまっており、「井の中の蛙」同士が、「群盲象を評す」という、自分に都合のよい局面だけをとらえて全体を把握・理解するといった、視野狹窄に陥っているのでしょう。要は、「こいつのことが嫌い」・「自分の思っていたものと違う」という考えが一致しているから、根本的な思想の差異は問題にはならず、互いに集団を離脱した傷をなめ合って、満足しているんだろうと想像します。 そうではなく、決断をした人がどういう思いで決断をしたのかにも思いを寄せ、集団としての決定を尊重し、どうしてもそれに納得がいかぬのなら、これこれこういう理由で、自分としてはこの部分に問題がある、といったことを、トップの決断の長所をあげた上で、感情的にならず、論理的に述べること。それに対する相手の反論があったら、それにも耳を傾ける、そして自分の意見が受け入れられなかったら、自分の考えのミスにも目を向けてみる、といった心の動きが必要なのではないでしょうか。 何よりも、自分の意見を述べるのは、覚悟が必要でしょう。反対論者と呼ばれる人たちは、そのことを理解しているのでしょうか。自身では他者に「覚悟を持て」と口にしつつも、自分のことについては「覚悟」を持ちきれていないといった場合も多いのではないか、と 想像します。 人のことはあまり言えないな、と自分自身も内省します。またまた下らないことを長々とすみませんでした。 それでは、あすの道場、期待します。
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門下生の間の意見交換ということを述べましたので、よしりん先生のブログ「どこに民主主義があるっての?」(https://www.gosen-dojo.com/blog/25356/)や、トッキーさんが紹介している「道場は民主主義じゃない件で」(https://www.gosen-dojo.com/blog/25359/)についても記します。
私は同じ意見であっても、人間の意見には優劣があると思っています。自分の発言したことが人の心を動かさないのは、その人に魅力がないのか、行動に一貫性がないかといった短所があるのだろうということなのでしょう。第一次世界大戦の講和会議も参加国の利害が一致せず、戦勝国5ヶ国位で決めたようですし(後述するように、その内容が適切なものだった、ということは別にして)、その集団の頭脳にあたるトップが決断し、周囲を説得して実行させることは非常に肝要なことだろうと思います。
ただし、そのトップが自身を律し、自分を客観的に見る視座を持つことも要求されているわけで、先の講和会議なら、ドイツに法外な賠償金を求めたり、ルール地方の占領をおこなって、ドイツ経済を麻痺させたりするといった愚を犯すようなら、それは判断ミスとしか言いようがない、と言えるでしょう。トップは孤独だと言われますが、それはトップ自らが決断することの孤独さということなのではないか、と私は思います。そのために、参考意見として他者の考えを尋ねることも必要だ、ということであって、決してどの意見にも汎用性のある価値があり、同レベルにあるという意味ではないのです。
民主主義は衆愚政治に堕落すると言いますが、それはみんなの意見を平等に採り上げて、まとまりのないものを築き上げる危険性を指しており、さらに個人は個人の都合の良いようにしか考えられないので、トップを含め、広い視野から物を見て、決定することが大切なのではないか、と思うのです。それを独裁的だとか、民主主義の精神に反するとか狭い観点からしか物を述べられないのは、その人が狭い自分だけの空間に安居し切ってしまっており、「井の中の蛙」同士が、「群盲象を評す」という、自分に都合のよい局面だけをとらえて全体を把握・理解するといった、視野狹窄に陥っているのでしょう。要は、「こいつのことが嫌い」・「自分の思っていたものと違う」という考えが一致しているから、根本的な思想の差異は問題にはならず、互いに集団を離脱した傷をなめ合って、満足しているんだろうと想像します。
そうではなく、決断をした人がどういう思いで決断をしたのかにも思いを寄せ、集団としての決定を尊重し、どうしてもそれに納得がいかぬのなら、これこれこういう理由で、自分としてはこの部分に問題がある、といったことを、トップの決断の長所をあげた上で、感情的にならず、論理的に述べること。それに対する相手の反論があったら、それにも耳を傾ける、そして自分の意見が受け入れられなかったら、自分の考えのミスにも目を向けてみる、といった心の動きが必要なのではないでしょうか。
何よりも、自分の意見を述べるのは、覚悟が必要でしょう。反対論者と呼ばれる人たちは、そのことを理解しているのでしょうか。自身では他者に「覚悟を持て」と口にしつつも、自分のことについては「覚悟」を持ちきれていないといった場合も多いのではないか、と
想像します。
人のことはあまり言えないな、と自分自身も内省します。またまた下らないことを長々とすみませんでした。
それでは、あすの道場、期待します。