今号も御多忙の中、配信有難うございます。今回、応募からは落選してしまいましたが、ニコニコで応援します。自分としては、九州で質疑応答できただけで満足です。 今回のテーマはSNSですが、それでちょっと阿呆なことをしたばかりです。確かに大人げない、人を不快にさせることでした。人を呪はば穴二つです。以前にも記しましたように、ある掲示板でそういう真似をしたこともあるのに、学習できていないです。自戒しつつ、記します。 ゴーマニズム宣言・第351回「スマホの危険度は麻薬に近い」 はっきり言って、スマートフォン、LINEなどについては何も知りません。LINEが韓国の会社名であることも知らずにいました。 だから、感想を記す資格はないのですが、今回の記事でリンクされている過去のライジング記事で感じたことは、その友人少女は明らかに共犯だということです。明確に、被害者少女への殺意を持っていて默認した、実行犯に共感して隠匿したとしか判断されないではありませんか。逮捕・裁判を免れた要因は、司法取り引きみたいなものなのですか? SNSなどにそういう危険性があるのなら、非常に由々しきことです。 しかし、それがないと、情報共有ができないような世の中になってしまっているのでしょうか。 ならば共同体を再生すれば良い、相談相手を作れば良い、と言いますが、それができなかったから、少女たちは家出をしているわけでしょう。いつだかの自殺幇助と称した殺人事件になったら、取り返しがつかない結果になったのでは。 なお、私の「知人」はネット関係に無知で、そういう話をしても目を白黒させるだけです。そういう専門の仕事をしているかたなのですが、ネットに無知なのが分かると、相手もおのずとそれに関する話をやめてしまうそうです。それでも何とかなってはいますし、実際有能な、信頼の置けるかたなのですが、専門家だからといって、万能とは限らない、むしろ知らないことの方が多い場合もあるのです。 こうしてライジングコメントを記していても、言葉とはとても不自由なものだと感じます。人が沢山存在するように、言葉には辞書だけでは定義できない様々な感情を込めることができるわけで、それをよみとれなかったら、コミュニケーションが成立せず、面と向かって話をするしか、信用を得ることによってしか、相手の気持ちを理解することは不可能なのだから。 それでも、昨今は言葉だけの励ましや慰めだけでも欲しいと感じてしまうほど、寂しがり屋の人間が増えてしまったのでしょうか。ネットによって生じてしまう疑似共同体で満足し、人と人との心のふれあいを求めることを疎む人間が増えてしまった、成れの果てなのでしょうか。本来見えなかったものが見えてくることで、すべてが分かったような気分になっているのかもしれないです。要は、ネットの言葉とは、その言葉を発した人たちの主観の集合体であり、客観性はまるで見受けられないように思えます。 一人でも寂しくない人間になる、自己確立する(自己完成とは違う)ということは非常に難しいのかな、ということを考えさせてくれる記事でした。 少し、個人的なことも記しても宜しいでしょうか。 ライジング感想についてもう少し言えば、購読者の義務として記しています。これを依存とか、麻薬のようなもの、と言われてしまえば、どうなのかな、と思います。「迷惑」や「話題の発展」には留意しているつもりですが、九州道場で、木蘭さんが、客観的に自分を見る、ということと、人目を気にしすぎることは違う、という話をされていたことともあわせて、少し考えてしまいます。 自分の場合、予定は手帳で、電話やメールが必要なら、いわゆるガラ携やパソコンで事足りるのではないか、なにゆえ、LINEの既読機能とやらに頼らないといけないのか、映画がつまらないからといって、未知の領域のある機械を操作しないといけないのか、疑問に感じます。入場料だって、莫迦にはならないでしょう。 それで不便を感じたことはまるでないです。はっきり言って、想像力貧困なのでしょうか? こんなふうに記してはいますが、メールのリストというのはどんなものなのか、できればそれに参加したいとは思っています。自分以外の人がどういう考え方をするのか、非常に関心はあるからです。何だかんだ言っていても、何かに所属したいという気持ちは自分の中にもあるのでしょう。 今は時折、トッキーさんが紹介して下さるブログなどで、何とかそういうものを学習したいです。こんなところです。
チャンネルに入会
フォロー
小林よしのりチャンネル
(ID:22136524)
今号も御多忙の中、配信有難うございます。今回、応募からは落選してしまいましたが、ニコニコで応援します。自分としては、九州で質疑応答できただけで満足です。
今回のテーマはSNSですが、それでちょっと阿呆なことをしたばかりです。確かに大人げない、人を不快にさせることでした。人を呪はば穴二つです。以前にも記しましたように、ある掲示板でそういう真似をしたこともあるのに、学習できていないです。自戒しつつ、記します。
ゴーマニズム宣言・第351回「スマホの危険度は麻薬に近い」
はっきり言って、スマートフォン、LINEなどについては何も知りません。LINEが韓国の会社名であることも知らずにいました。
だから、感想を記す資格はないのですが、今回の記事でリンクされている過去のライジング記事で感じたことは、その友人少女は明らかに共犯だということです。明確に、被害者少女への殺意を持っていて默認した、実行犯に共感して隠匿したとしか判断されないではありませんか。逮捕・裁判を免れた要因は、司法取り引きみたいなものなのですか?
SNSなどにそういう危険性があるのなら、非常に由々しきことです。
しかし、それがないと、情報共有ができないような世の中になってしまっているのでしょうか。
ならば共同体を再生すれば良い、相談相手を作れば良い、と言いますが、それができなかったから、少女たちは家出をしているわけでしょう。いつだかの自殺幇助と称した殺人事件になったら、取り返しがつかない結果になったのでは。
なお、私の「知人」はネット関係に無知で、そういう話をしても目を白黒させるだけです。そういう専門の仕事をしているかたなのですが、ネットに無知なのが分かると、相手もおのずとそれに関する話をやめてしまうそうです。それでも何とかなってはいますし、実際有能な、信頼の置けるかたなのですが、専門家だからといって、万能とは限らない、むしろ知らないことの方が多い場合もあるのです。
こうしてライジングコメントを記していても、言葉とはとても不自由なものだと感じます。人が沢山存在するように、言葉には辞書だけでは定義できない様々な感情を込めることができるわけで、それをよみとれなかったら、コミュニケーションが成立せず、面と向かって話をするしか、信用を得ることによってしか、相手の気持ちを理解することは不可能なのだから。
それでも、昨今は言葉だけの励ましや慰めだけでも欲しいと感じてしまうほど、寂しがり屋の人間が増えてしまったのでしょうか。ネットによって生じてしまう疑似共同体で満足し、人と人との心のふれあいを求めることを疎む人間が増えてしまった、成れの果てなのでしょうか。本来見えなかったものが見えてくることで、すべてが分かったような気分になっているのかもしれないです。要は、ネットの言葉とは、その言葉を発した人たちの主観の集合体であり、客観性はまるで見受けられないように思えます。
一人でも寂しくない人間になる、自己確立する(自己完成とは違う)ということは非常に難しいのかな、ということを考えさせてくれる記事でした。
少し、個人的なことも記しても宜しいでしょうか。
ライジング感想についてもう少し言えば、購読者の義務として記しています。これを依存とか、麻薬のようなもの、と言われてしまえば、どうなのかな、と思います。「迷惑」や「話題の発展」には留意しているつもりですが、九州道場で、木蘭さんが、客観的に自分を見る、ということと、人目を気にしすぎることは違う、という話をされていたことともあわせて、少し考えてしまいます。
自分の場合、予定は手帳で、電話やメールが必要なら、いわゆるガラ携やパソコンで事足りるのではないか、なにゆえ、LINEの既読機能とやらに頼らないといけないのか、映画がつまらないからといって、未知の領域のある機械を操作しないといけないのか、疑問に感じます。入場料だって、莫迦にはならないでしょう。
それで不便を感じたことはまるでないです。はっきり言って、想像力貧困なのでしょうか?
こんなふうに記してはいますが、メールのリストというのはどんなものなのか、できればそれに参加したいとは思っています。自分以外の人がどういう考え方をするのか、非常に関心はあるからです。何だかんだ言っていても、何かに所属したいという気持ちは自分の中にもあるのでしょう。
今は時折、トッキーさんが紹介して下さるブログなどで、何とかそういうものを学習したいです。こんなところです。