希蝶 のコメント

 すみません。今回の話題について、もう少し考えてみたくなりました。またまたつまらない話ですみません。

 映画「ジョーカー」の話は、ライジングVOL.334で、よしりん先生は、いじめに対しては切れるのが良い、というふうに述べられた話と関連性があるように感じました。その切れ方を間違えると、出来損ないの映画のような話になる、と。
 前にも記したように、いじめに対してはただ泣き叫ぶのではなく、何らかの形で抵抗するのは真実だと思うのです。が、かりにその先生がそれをやった場合、勤め先の学校を辞めるという事態に追い込まれるのではないのでしょうか?「要らぬ騒ぎを起こした」・「被害者ぶっている」・「こいつとかかわると面倒なことになる」というふうに言われ、ますます孤立するようなことはあり得ないのでしょうか。その先生の泣き叫ぶ有様は情けないと自分も思いますが、「周囲に迷惑をかけてはならない」、「自分にも責任があるかもしれない」、「こんなことで騒ぎ立てるのは恥ずかしいことだ」と感じてしまったのではないか、とも想像するのです。

 こんな話もある、ということを説明します。
 その人は会社旅行を仕事の一貫と感じて参加したのですが、夜中に何者かに掛け布団を投げつけられたそうです。翌朝、そのことを騒ぎたて、旅行から帰った後、上司にそのことを訴えたのだそうですが、「証拠のないことは取り上げられない。かえって貴方の立場が悪くなる。職場にいられなくなるよ」と言われたそうです。その人の寝相の悪さも問題だったのでしょうが、この場合、切れることは正しいことだったのでしょうか?それとも、布団を投げつけられた直後に「何をする!」と喚けば良かったのでしょうか?(それはそれで周囲に迷惑ですよね)
 いずれにしても、彼はもう社員旅行には参加しない、と言っています。

 話を「ジョーカー」にもどすと(この映画を見たわけではないので、想像で記します)、彼は自分の特徴を笑われ、社会から裏切られたと感じたことで殺人をおかし、そのことが庶民の社会への不満と一致していたため、喝采されるわけですが、その社会を作り出すものは、一般大衆の「常識」であり、たとえある「個人」が善良であったとしても、社会には適合しない、という相手(この場合は、その上司や布団を投げつけた何者か)の「先入観」に基づく判断により排除されてしかるべきだ、ということは成立してしまうのか、という疑問が生じました。
 私は、こういう場合、第三者立ちあいのもとで、当事者同士が話し合う機会があれば、誤解のようなものも解けると思うのですが、まず、そんな機会を第三者が作ろうとは思わないのでしょうし(みんな、厄介ごとは避けたいから)、片方が「ただその人が嫌いだ」と思っているうちは、そのような話し合いは行われないのではないか、嫌いだと思う人への、公的な(仕事ができない、とか、雰囲気とか人付き合いが悪い、とかいう)根拠づけを行ってしまい、ますますそういう機会が失われてゆくのではないか、と思いました。極端な話を言えば、「社会」自身が少数者を排除し、「社会」の調和を崩壊させる要因をおのすから生み出している、とは言えないのでしょうか。

 以前の話題を蒸し返したことをお詫び致します。私はだからといって、ポリティカル・コレクトに繋がるような、少数者の欲求を大幅に認めろ、とは主張はしません。ただ何が問題なのか、話し合いには応じるべきだろうとは思います。そして、それが片方の妄想でしかないのならば、その理由をはっきりと合理的に理論的に、多少心情的にも示すのも必要だろうと思います。
 「バットマン」の話に限って言えば、「ジョーカー」は作品世界の中における「悪」であり、社会の不満を代表するキャラクターではないのだから、バットマンとジョーカーが話し合いをして、ジョーカーが改心するなんて話を作ったら、それこそしらけるのではないか、と思います。
 とりとめのない話で、すみませんでした。

No.56 60ヶ月前

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