M.O のコメント

今回も配信ありがとうございます。
「教師いじめのみじめなポリコレ」についてですが、大人ならばキレて当然、やってられるかと学校に行かなければよい、というのは全くおっしゃる通りだと思います。
ただ、それが出来ない理由は「無菌室で育ったから毒を知らない」ということだけではないと思います。
これもやはり『ゴー宣』で繰り返し取り上げてこられた「個」「私」「公」「集」の問題ではないでしょうか。
私も新卒で入社した会社が異様で歪な職場環境になっていたために、精神をやられて鬱病になってしまいました。
そのような環境に置かれると、横の繋がりを意識できないので、「個」が育たないんですね。
早々に退職するだけの行動力があれば良かったのですが、氷河期世代にはそれも出来ません。
生活のために惰性で「集」に合わせていくだけの生活になってしまいます。
被害者教師もそれに近い状態だったのではないでしょうか?
若い教師が声を上げる具体的なリスクについては私は分かりませんが、ともあれ被害者教師も「集」になびき、「個」を失い、子供のようなわめき声を発するぐらいに社会性が失われてしまいました。
「子供たちには優しい」といっても、教師としての職務が全うできていない(自身に対するイジメが子供たちにも悪影響を与えた)以上、「公」には寄与していません。
自分としては「せめて子供たちには優しくしよう」と思っていたとしても、それが「公」から離れているとすれば、「私」の領域になってしまうのかもしれません。
そもそも「優しくする」って心がけ一つで出来てしまうもので、詐欺師でもカルト教信者でも簡単に優しく振る舞っています。
本来ならば、子供たちが自らポジティブな事を学び取れる環境を整えるとか、そういったところまで及ばないと「公」の領域には到達しないのだと思います。
ひょっとしたら「子供たちに優しくする」というのは、いじめられて惨めな自分を慰める代償行為である可能性もありますよね。

理想は「個」をやられる前に逃げる、声を上げるということなのでしょうけど、ではそれを出来る大人が今の時代、どれぐらいいるのでしょう?
イジメとは異なりますが、長時間労働などの過酷な勤務に耐えかねて自殺、という事件が後を絶ちません。
こういうのを見ると、日本人はため込んでしまう性質が強いのだろうか? と思ってしまいます。
「自分だけが辛抱すれば問題ない」という間違った美徳観。
そこを突き破って行動に及んだ時に、後ろ指指される立場になるのではないか、という恐怖感。
即ち、「集」に絡め取られやすい、「個」が確立しづらい日本人の欠点を感じ取りました。

No.75 62ヶ月前

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