希蝶 のコメント

>>75
参考までに、自分の理解している範囲で記してみます。
1.推古天皇の夫君(異母兄)である敏達天皇には、広姫という先妻がいて、押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)という年長の皇子がいた。
2.一方、皇后(継室)である額田部皇女(ぬかたべのひめみこ、推古天皇)には、竹田皇子という皇子が存在し(奇しくも竹田、という名前なんですけれども)、皇后の意向としては、血をわけた実子に位を譲りたかった。
3.どちらを推しても血塗られた争いが起こりかねないので、やむを得ず、(蘇我氏と親しい)厩戸皇子(うまやどのみこ、聖徳太子)が皇太子、あるいは大兄(皇族の年長者)になった。ただし、いきなり天皇にするわけにはいかなかったので、「摂政」という役目を負うことになった。

あるいはこの時には、押坂も竹田も病死、あるいは病弱で皇位を継承できず、そこで壮年で身体壮健の青年皇族である、敏達天皇の弟、用明天皇の皇子である聖徳太子にお鉢が回ってきた。

簡単に説明するとこんな感じですが、間違っていましたら、すみません。なお、押坂の息子が舒明天皇であり、その子供が天智天皇であり、天武天皇になります。

こう記すと推古天皇が妥協の産物のように見え、お飾りであったかの如く感じられますが、晩年、蘇我馬子に朝廷の直轄地である「倭の六県(やまとのむつのあがた)」を下賜して下さるよう懇願した際に、先例となってはまずいからといって断固として拒絶した、というエピソードも残されており、強固な意志を有していたことも伺われます。

No.76 60ヶ月前

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