『SPA!』の「ゴー宣」第40章を読みました。 非常にショッキングな内容でしたが勉強になりました。 「血の論理」による「優遇」は「差別」の裏返しである、という主張は極めて明快で分かりやすいものでした。 「ゴー宣」「ライジング」読者のみならず、イデオロギーに毒されていない庶民であれば、容易に理解が出来るものでしょう。 一方、極右と極左は、4ページ目あたりから内容が頭に入ってこず、「自分たちは差別主義者ではない。ヒトラーと一緒にするな」という勝手な思い込みに囚われて、勝手に発狂してしまう構成になっているのだと思いました。 『差別論』の中に「わしは読者に対して敢えてワナを描くこともある」という記述がありましたが、今回の内容は大がかりな差別主義者をあぶり出すワナなのかな、とも想像します。 ただ、「血の論理」の問題が提起されたのを受けて、私は「では、天皇制はどういう扱いになるのだろう?」と疑問に感じながら読んでいました。 なので、ラストで「天皇制も血統の論理であることは、わしは充分に自覚している。このことは改めてじっくり論じよう」とあったのを見てホッとすると同時に、既に先回りをしてしまっている「想定範囲」の大きさに驚きました。 でも、先生の「改めての論考」を待つだけでは何だし、そもそも自身の関心が高いことではあるので、天皇制の「血の論理」とはどういうものか、自分で一生懸命考えてみました。 まず考えついたのは、天皇家の「血の論理」を「優生思想」と認識していた皇族はほとんどおられなかったろう、ということです。 乱暴狼藉をはたらいたり、人格に問題があった皇族はおられたでしょうけど、「優生思想」を振り回して目立った行動をとられた皇族は、少なくとも記録には残っていないような気がします。 むしろ天皇家の「血」は、「不自由さ」をもたらすものなのではないでしょうか。 天皇家に生まれた以上、本人の意思だけでは皇室から離れることは出来ず、一生を皇族として暮らさなければならない、という制限は、「人権」という概念が存在しなかった前近代においても充分に「不自由さ」を感じさせるものだった、と想像することが出来ます。 一方で、天皇家は「公」を体現した存在です。 そこに説得力をもたせるのが「血の論理」であり、それはすなわち「歴史の縦軸」の尊重ということではないか、と考えました。 日本の国体という大きなスケールで考えた場合、「歴史の縦軸」で紡がれた存在が「公」を体現する、というかたちは、国の安定に大いに寄与するのかもしれません。 だから、歴代の天皇や皇族は、「血」がもたらす「不自由さ」を「宿命」として受け入れてこられたのではないでしょうか。 その上で、時代に応じた「保守」としての行動や態度を模索されてきたからこそ、自然なかたちでの「権威」が形成されてきたのだと思います。 大それた事を書いてしまい、大変に恐縮の至りです。 認識の誤りもあろうかと思います。 ただ、「血」は特定の集団を優遇したり差別したりするための要因ではない、ただし「宿命」として「自ら」行動を制限する論理にはなりうるのではないか、と考えたことから、以上のような見解に到りました。
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『SPA!』の「ゴー宣」第40章を読みました。
非常にショッキングな内容でしたが勉強になりました。
「血の論理」による「優遇」は「差別」の裏返しである、という主張は極めて明快で分かりやすいものでした。
「ゴー宣」「ライジング」読者のみならず、イデオロギーに毒されていない庶民であれば、容易に理解が出来るものでしょう。
一方、極右と極左は、4ページ目あたりから内容が頭に入ってこず、「自分たちは差別主義者ではない。ヒトラーと一緒にするな」という勝手な思い込みに囚われて、勝手に発狂してしまう構成になっているのだと思いました。
『差別論』の中に「わしは読者に対して敢えてワナを描くこともある」という記述がありましたが、今回の内容は大がかりな差別主義者をあぶり出すワナなのかな、とも想像します。
ただ、「血の論理」の問題が提起されたのを受けて、私は「では、天皇制はどういう扱いになるのだろう?」と疑問に感じながら読んでいました。
なので、ラストで「天皇制も血統の論理であることは、わしは充分に自覚している。このことは改めてじっくり論じよう」とあったのを見てホッとすると同時に、既に先回りをしてしまっている「想定範囲」の大きさに驚きました。
でも、先生の「改めての論考」を待つだけでは何だし、そもそも自身の関心が高いことではあるので、天皇制の「血の論理」とはどういうものか、自分で一生懸命考えてみました。
まず考えついたのは、天皇家の「血の論理」を「優生思想」と認識していた皇族はほとんどおられなかったろう、ということです。
乱暴狼藉をはたらいたり、人格に問題があった皇族はおられたでしょうけど、「優生思想」を振り回して目立った行動をとられた皇族は、少なくとも記録には残っていないような気がします。
むしろ天皇家の「血」は、「不自由さ」をもたらすものなのではないでしょうか。
天皇家に生まれた以上、本人の意思だけでは皇室から離れることは出来ず、一生を皇族として暮らさなければならない、という制限は、「人権」という概念が存在しなかった前近代においても充分に「不自由さ」を感じさせるものだった、と想像することが出来ます。
一方で、天皇家は「公」を体現した存在です。
そこに説得力をもたせるのが「血の論理」であり、それはすなわち「歴史の縦軸」の尊重ということではないか、と考えました。
日本の国体という大きなスケールで考えた場合、「歴史の縦軸」で紡がれた存在が「公」を体現する、というかたちは、国の安定に大いに寄与するのかもしれません。
だから、歴代の天皇や皇族は、「血」がもたらす「不自由さ」を「宿命」として受け入れてこられたのではないでしょうか。
その上で、時代に応じた「保守」としての行動や態度を模索されてきたからこそ、自然なかたちでの「権威」が形成されてきたのだと思います。
大それた事を書いてしまい、大変に恐縮の至りです。
認識の誤りもあろうかと思います。
ただ、「血」は特定の集団を優遇したり差別したりするための要因ではない、ただし「宿命」として「自ら」行動を制限する論理にはなりうるのではないか、と考えたことから、以上のような見解に到りました。