遅ればせながら、生放送をタイムシフトで視聴しました。 感じたことを手短に。 現金について話をしていた時に、木蘭先生が「東日本大震災の時でも、避難所では色々な事を紙に書いて貼っていた」というエピソードを紹介されていました。 そこで思い出したのですが、Windows98のブームあたりで、これからはペーパーレス社会だ、などと言われていましたよね。 オフィスもペーパーレス化され、社内の回覧文書や決裁文書も社内LANで閲覧するようになり、紙代が大幅に節約できるのだ、という売り文句がありました。 しかし、現実にはそのようなことにはなっていません。 直感的に使える紙とペンの利便性は、今なお支持され続けています。 だから――という順接はやや強引ですが――現金もなくならないと思います。 システムトラブルや大災害が発生した時のリスクもさることながら、現金は直感的に自分の財政状況を把握できる、という利点があります。 最近は銀行口座を開いても通帳をつくらない「Web明細」というサービスを提供する金融機関も多いですが、ATMコーナーの利用者を見る限り、まだまだ紙の通帳を使っている方は多いです。 コツコツ貯金していかねばならない時代に、カードに頼ってしまうと「うっかり使いすぎてしまった」という痛恨のミスを犯してしまう、という危険性を身をもって知っている庶民も多いのでしょう。 独身の学生や若者はともかくとして、普通に家計を管理するべき大人となれば、やはりレシートはきちんともらってある程度は記録するでしょうから、スマホの家計簿アプリはもちろんのこと、手書きの家計簿も人気となっています。 海外の事情はともかく、日本での現金主義は根強いと思います。 あと、よしりん先生が「ひきこもりの人が『ゴー宣』を読んでいたと知って、驚いた」とおっしゃっていましたが、私もそうであった一人です。 うつ病で仕事を辞め、ひきこもりというよりはニート状態だった時期がありまして、その時はネトウヨと化していました。 ただ、ネトウヨ世論に疑問を感じて、紙の本を読むようになり、その流れで読んだのが『民主主義という病い』でした。 その当時は、小林よしのりが民主主義を批判するのだろう、ゴリゴリの右翼的内容なのだろう、シールズや民進党を蹴散らしてくれているのだろう、と思っていたのですが、全然違っていました(シールズは蹴散らしていましたが)。 決して「我」が強いわけではなく、社会に出るエネルギーを持ち合わせていなくても、ある程度の自己愛は持っているから、自分の考えを確認してみたいというような動機で『ゴー宣』は読めるんです。 私の場合、幸いにもそこで少し目が覚め、その後に『戦争論』を再読して、ネトウヨの泥沼から脱出できたわけで、それは紙の本が持つ圧倒的熱量やエネルギーが、卑しいネトウヨ思考を払拭してくれたのだろう、と考えています。 だから、『ゴー宣』やその他のスペシャル本が紙の本として出版される意義は、出版不況の世の中でも非常に大きいと思いますし、こうして声を上げていない「サイレントマジョリティ」的なゴー宣読者は多数おられると思います。 そもそも出版不況にしても、確かに街の十坪書店のようなお店はなくなっていきましたが、大型書店の店内は客がたくさんいて、熱気に溢れているのを感じます。 あくまで私の想像ですが、書籍・雑誌の売れ行き減少は、一人あたりの購入点数が減った、ということであって、書店に足を運ぶ人は依然として変わっていないのではないでしょうか。 だからこそ、紙の本を店に置いてもらう、というのは、それが偶然客の目に入って購入に到る、という可能性を残すという意味で、やはり意義があるのだと思います。 少し論旨がズレてしまいましたが、今はデジタルに席巻されてしまうか否かの過渡期なのではないでしょうか。 そして、我々団塊ジュニア世代に関しては、周りを見渡しても必ずしもデジタルに魂を売りはしないという人が多いように感じます。 庶民ならではのバランス感覚をキープして、カードやネットなど利用する時は利用する、というスタイルに結局は収束するような気がします。 というか、そうでないと怖いですね。
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遅ればせながら、生放送をタイムシフトで視聴しました。
感じたことを手短に。
現金について話をしていた時に、木蘭先生が「東日本大震災の時でも、避難所では色々な事を紙に書いて貼っていた」というエピソードを紹介されていました。
そこで思い出したのですが、Windows98のブームあたりで、これからはペーパーレス社会だ、などと言われていましたよね。
オフィスもペーパーレス化され、社内の回覧文書や決裁文書も社内LANで閲覧するようになり、紙代が大幅に節約できるのだ、という売り文句がありました。
しかし、現実にはそのようなことにはなっていません。
直感的に使える紙とペンの利便性は、今なお支持され続けています。
だから――という順接はやや強引ですが――現金もなくならないと思います。
システムトラブルや大災害が発生した時のリスクもさることながら、現金は直感的に自分の財政状況を把握できる、という利点があります。
最近は銀行口座を開いても通帳をつくらない「Web明細」というサービスを提供する金融機関も多いですが、ATMコーナーの利用者を見る限り、まだまだ紙の通帳を使っている方は多いです。
コツコツ貯金していかねばならない時代に、カードに頼ってしまうと「うっかり使いすぎてしまった」という痛恨のミスを犯してしまう、という危険性を身をもって知っている庶民も多いのでしょう。
独身の学生や若者はともかくとして、普通に家計を管理するべき大人となれば、やはりレシートはきちんともらってある程度は記録するでしょうから、スマホの家計簿アプリはもちろんのこと、手書きの家計簿も人気となっています。
海外の事情はともかく、日本での現金主義は根強いと思います。
あと、よしりん先生が「ひきこもりの人が『ゴー宣』を読んでいたと知って、驚いた」とおっしゃっていましたが、私もそうであった一人です。
うつ病で仕事を辞め、ひきこもりというよりはニート状態だった時期がありまして、その時はネトウヨと化していました。
ただ、ネトウヨ世論に疑問を感じて、紙の本を読むようになり、その流れで読んだのが『民主主義という病い』でした。
その当時は、小林よしのりが民主主義を批判するのだろう、ゴリゴリの右翼的内容なのだろう、シールズや民進党を蹴散らしてくれているのだろう、と思っていたのですが、全然違っていました(シールズは蹴散らしていましたが)。
決して「我」が強いわけではなく、社会に出るエネルギーを持ち合わせていなくても、ある程度の自己愛は持っているから、自分の考えを確認してみたいというような動機で『ゴー宣』は読めるんです。
私の場合、幸いにもそこで少し目が覚め、その後に『戦争論』を再読して、ネトウヨの泥沼から脱出できたわけで、それは紙の本が持つ圧倒的熱量やエネルギーが、卑しいネトウヨ思考を払拭してくれたのだろう、と考えています。
だから、『ゴー宣』やその他のスペシャル本が紙の本として出版される意義は、出版不況の世の中でも非常に大きいと思いますし、こうして声を上げていない「サイレントマジョリティ」的なゴー宣読者は多数おられると思います。
そもそも出版不況にしても、確かに街の十坪書店のようなお店はなくなっていきましたが、大型書店の店内は客がたくさんいて、熱気に溢れているのを感じます。
あくまで私の想像ですが、書籍・雑誌の売れ行き減少は、一人あたりの購入点数が減った、ということであって、書店に足を運ぶ人は依然として変わっていないのではないでしょうか。
だからこそ、紙の本を店に置いてもらう、というのは、それが偶然客の目に入って購入に到る、という可能性を残すという意味で、やはり意義があるのだと思います。
少し論旨がズレてしまいましたが、今はデジタルに席巻されてしまうか否かの過渡期なのではないでしょうか。
そして、我々団塊ジュニア世代に関しては、周りを見渡しても必ずしもデジタルに魂を売りはしないという人が多いように感じます。
庶民ならではのバランス感覚をキープして、カードやネットなど利用する時は利用する、というスタイルに結局は収束するような気がします。
というか、そうでないと怖いですね。