希蝶 のコメント

2. 泉美木蘭のトンデモ見聞録・第118回「ヌードモデルというもの」

前回もあげましたが、藝術とは『盲獣』の触感彫像みたいなものであって、ある特殊なものをクローズアップするもので、ある特別な条件化においてしか感知することのできぬものだろうと私は思います。その条件の中に、印象派とかフォービズムとか、抽象画とか宗教画とか、よく分からないけれどもそういったジャンルがあるのだろうと。そして、それはある立場のものにとっては苦痛でしかないものでもあるのだろうと。そういう人は、その藝術を破壊するのではなしに、避けることはできるのではないか、と。
ギリシャ神話の絵画とか彫像にもヌードは取り上げられていますが、それはギリシャの夏期に高温である気候を抜きにしては考えられないものであって、イギリスのような海流の影響で夏冬安定した気候においては、理解しがたいものだったのではないのでしょうか。
日本のように、豊穣な環境で、四季の移り変わりが激しく、自然と争うよりも、自然と共存しようという生活習慣の中では、敢えて藝術のために裸を美しく見せるといった思想は生まれ得なかったのだろうと想像します。

少し難しく記してみましたが、要は『砂の女』ではないですが、分からないもの、わかりにくいものでも、私たちは何かを訴えかけていることは感じ取ることはできるのであって、それがある限り、理解しがたいものであっても、消滅させるのではなしに、残し、伝えてゆく必要性はあるのではないか、ということです。芭蕉が俳諧を藝術として成立させたのも天才のなせるわざでしょうし、当時の人々は、何を言葉のお遊びに夢中になって、旅行までして、といった感慨しか抱けなかったのではないか、それを理解したのは与謝蕪村とか正岡子規など、のちの世の後継者だったのでしょう。そうした「わかりにくい」ものにも寛容であるべきであろうと思います。

せんずりネタ云々については、エッチ漫画雑誌などの絵を見て、ただ藝術だ、とか美しいとか感じるよりは健康的だと思います。少しだけ蒲魚ぶらせていただくと、私はそういうのは男女互いが思い合っていて、双方が幸せな状態なものでないといけないというふうには思います。
以前、知人から「○○さんはアニメのポスターのある部分に穴をあけている」みたいな根も歯もないことを言われたことがあるのですが、その時は真剣に、「なぜ藝術作品に類するものを、自ら損なうようなことを為なければならないんだろう」と不可解に感じました。上記のことに関連して思い出したことはそんなところです(下品な話ですいません円。これも一種の差別とか、無理解というものでしょう)。

なんかいまいちな内容ですが、いかがでしょうか。
それでは、また次回配信を期待します。

No.64 69ヶ月前

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