希蝶 のコメント

遅ればせながら、今号の感想です。

1. ゴーマニズム宣言・第316回「あらゆる差別のない社会は左翼の目標」

最初に、立憲民主党の綱領や幹事長の発言、幼稚だと私も思います。そのことを踏まえて、自分の考えを述べると、私は、「差別のない」と「平等」は正反対の観念だと思っています。
なぜなら、その人の能力を無視し、すべてを均一化するところに、差別が生まれると感じるからです。均一化により、個性やその人固有の能力を無視した「平等」という差別が生まれるのではないでしょうか。しかし、これらを混同する人間のなんと多いことか。
人間には、その人の経験や知覚でしか感じ取れない世界があり、それを補うのが他者の観点であり、客観性であるのだから、「差別」の完全撤廃はあり得ないと思うのです。歴史的に見て、多数派の意見となった「常識」があるから、この世の中は成り立ち、規範が定められ、動かされてゆくのだろうと。誤差が生じたら、その都度是正してゆくしかないのではないか、と。

自分の経験をこの場で記すと、どうも顰蹙を買いそうですが、「平等」という言葉では嫌な思い出があります。とあるスーパーでアルバイトしていた際に、上司から「自分はみんなを平等に、差別を設けないで見ている」と言われた後で、自分の作業がなっていないとか、仕事をなめている、といったことを言われたことです。
正直言って、自分は自分のしている作業や仕事を「なめて」はいません。常に全力投球しています。確かに能力的に劣っている面もあるのでしょうが、それはその上司が下した客観的判断なのですから、仕方がない、とも思います。アルバイトを掛け持ちしていたのもいけなかったのでしょうし、この場ではあまり言いたくないですが、自分の特徴(障碍)についても、その当時はよく分かっておりませんでした。
しかし、その時以来、「平等」という言葉を聞くたびに、不快な気分になります。人には得て不得手があり、できることとしにくいこととがあるのだから、それを均一の物差しではかるのは、不可能だと思うのです。

人は個々に異なっており、常識の範疇の中で、個人の基準を持っているのだから、それに当てはまらないものは、劣っているとか、「非常識」だとかいうふうに見てしまうのも当然なのでしょう。だから、私は偏見を持たず、「言葉」で互いに語り合うことでその溝が何とかならないか、と思うのですが、その考えは幼稚なのでしょうか。
話がずれましたが、私はこうした差別が生じるのは、結局のところ、「平等」という「常識」があるからで、カンボジアのポルポト政権も、社会主義も、無能なものも能力のあるものも一緒にして見てしまったからこそ、起こった悲劇のような気がしてなりません。毛沢東は蝗を殺せと命じたために、返って農作物を不作にした、といいますが、何もかもを等しくすることは不可能で、故に社会規範としての「客観性」や「常識」が生まれるのだと思うのです。

「多様性」がよいとは申しませんが、個々の性格にあったものまで見て、その上でどうするのがその人にとって、また集団や社会にとってよりよいことなのか、その都度考えてゆくことこそが肝要なのではないか、と締めておきます。

木蘭さんの感想は、また後で改めて。

No.61 69ヶ月前

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