今週も配信ありがとうございます。 方言を始めとする地域性のある言い回しについて、「会話が大事」というのは大いに納得できます。 私は大阪人ですが、明石家さんまやダウンタウンらが全国区の人気者となり、関西弁が一般的に認知されている状況について、何とも複雑な心境を抱いております。 というのも、テレビやネットの断片的な情報が必要以上に拡大されて、誤解が蔓延しているようだからです。 「関西人の日常会話は漫才になってしまう」 ならへん! 「関西人は誰でも例えツッコミができる」 できひん! 「関西人の話には必ずオチがある」 毎回落とせるか! ――こういう誤解は、実際に関西で日常会話に接していれば「ありえない」ものばかりだということはすぐに分かるのですが、「関西人・関西弁」というのものが面白がられているのか、払拭されるのは難しいようです。 まあ、関西人自体が、「東京への対抗心」を異常に燃やしていて、東京でもことさらに「自身の関西人アピール」を強行してしまう人種なので、自業自得とも言えますが。 ちなみに、関西弁でも消えていきつつある言葉が多数存在します。 「煮抜き(ゆでたまご)」「水屋(食器棚)」「おいど(お尻)」「さいぜん(先ほど)」などなど。 上方落語などでそれらに接することが出来る、というのが不幸中の幸い。 「情弱」については、私も以前から同じようなことを考えていました。 この言葉が流行り始めた当初は、ネット検索のやり方も分からない人たちを揶揄する表現だったと思います。 つまり、検索によって多くの情報を仕入れることもままならないからこそ、「情報弱者」の状態なのだ、と。 ところが、いつの間にかネットが一番と信じて疑わない人が、「今時、旧世代メディアで情報収集してるのか」と蔑むときに用いられるようになったようですね。 そうなると、ネットしか見ない人間の方が、仕入れる情報は少ないわけですから――ましてや本を読むこともままならず、読解力皆無でしょうから――彼らこそが「情弱」なのだと思います。 自分で気付いていないんですね。 「Q&A」でZOZOTOWNの前澤社長の「Twitterお年玉」が取り上げられていましたが、あれについてネット上で「フォロワー数を金で買ってる」と批判するコメントが相次いだのだそうです。 私はそれを聞いて吹きだしてしまいました。 この期に及んで、フォロワーやいいね!の数について、そんなピュアな考え方をしている人間がいたのか、と。 Googleの検索結果の上位表示も金で買える、というのは常識なのに、単純に「フォロワー数を稼ぐなら、内容の良さで勝負しろ」「金を介在させるな」なんて、お子様にも程があります。 恐らくYouTubeの再生回数とか、Amazonレビューの星の数なんかも、「当てになる数値」と信じ込んでいるんでしょう。 Facebookで自分好みの広告が配信されるのも、「おお、さすが分かってるなあ」と感心しきりなのでしょうか。 まさに「情弱」の極み! 「情弱」はこれからのAI社会を生き抜くことは出来ないでしょう。 そういう意味では、「情弱」という言葉は、本来の用法に則るならばという但し書きつきで、今後に残していってもよいのではないか、と思います。
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小林よしのりチャンネル
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今週も配信ありがとうございます。
方言を始めとする地域性のある言い回しについて、「会話が大事」というのは大いに納得できます。
私は大阪人ですが、明石家さんまやダウンタウンらが全国区の人気者となり、関西弁が一般的に認知されている状況について、何とも複雑な心境を抱いております。
というのも、テレビやネットの断片的な情報が必要以上に拡大されて、誤解が蔓延しているようだからです。
「関西人の日常会話は漫才になってしまう」
ならへん!
「関西人は誰でも例えツッコミができる」
できひん!
「関西人の話には必ずオチがある」
毎回落とせるか!
――こういう誤解は、実際に関西で日常会話に接していれば「ありえない」ものばかりだということはすぐに分かるのですが、「関西人・関西弁」というのものが面白がられているのか、払拭されるのは難しいようです。
まあ、関西人自体が、「東京への対抗心」を異常に燃やしていて、東京でもことさらに「自身の関西人アピール」を強行してしまう人種なので、自業自得とも言えますが。
ちなみに、関西弁でも消えていきつつある言葉が多数存在します。
「煮抜き(ゆでたまご)」「水屋(食器棚)」「おいど(お尻)」「さいぜん(先ほど)」などなど。
上方落語などでそれらに接することが出来る、というのが不幸中の幸い。
「情弱」については、私も以前から同じようなことを考えていました。
この言葉が流行り始めた当初は、ネット検索のやり方も分からない人たちを揶揄する表現だったと思います。
つまり、検索によって多くの情報を仕入れることもままならないからこそ、「情報弱者」の状態なのだ、と。
ところが、いつの間にかネットが一番と信じて疑わない人が、「今時、旧世代メディアで情報収集してるのか」と蔑むときに用いられるようになったようですね。
そうなると、ネットしか見ない人間の方が、仕入れる情報は少ないわけですから――ましてや本を読むこともままならず、読解力皆無でしょうから――彼らこそが「情弱」なのだと思います。
自分で気付いていないんですね。
「Q&A」でZOZOTOWNの前澤社長の「Twitterお年玉」が取り上げられていましたが、あれについてネット上で「フォロワー数を金で買ってる」と批判するコメントが相次いだのだそうです。
私はそれを聞いて吹きだしてしまいました。
この期に及んで、フォロワーやいいね!の数について、そんなピュアな考え方をしている人間がいたのか、と。
Googleの検索結果の上位表示も金で買える、というのは常識なのに、単純に「フォロワー数を稼ぐなら、内容の良さで勝負しろ」「金を介在させるな」なんて、お子様にも程があります。
恐らくYouTubeの再生回数とか、Amazonレビューの星の数なんかも、「当てになる数値」と信じ込んでいるんでしょう。
Facebookで自分好みの広告が配信されるのも、「おお、さすが分かってるなあ」と感心しきりなのでしょうか。
まさに「情弱」の極み!
「情弱」はこれからのAI社会を生き抜くことは出来ないでしょう。
そういう意味では、「情弱」という言葉は、本来の用法に則るならばという但し書きつきで、今後に残していってもよいのではないか、と思います。