トッキーさんの「町山智弘がぶっ壊れてきた」というブログを読み、Twitterの方を参照してみました。 私はTwitterは全く利用していないので、短文の羅列に頭がクラクラしてきました。 該当のツイートを発見し、スレッドを読んでみたのですが、町山とそのフォロワーによる知性ゼロのレスで、また頭がクラクラしてきました。 やはり私にはTwitterは合わない、感情が劣化してしまう、トッキーさんや『ゴー宣』読者の方々はよくこういうのを読んで気が変にならないなあ、などと感じましたが、それはともかく読んで思ったことを書きます。 もし、良識ある人間があのツイートを読んだとしたら、今後は町山智弘の映画評論を読もうとは思わないでしょう。 専門外のトピックとはいえ、ここまで反知性的な文章を書き、論理的な批判にきちんと答えられない人間が書く映画評論には価値がないと判断するのが当たり前だからです。 また、神話の寓意性を理解出来ない人間が、フィクションである映画を評論できるのか、と思われても仕方がありません。 町山のああいった言葉や態度を引き出した、『ゴー宣』読者の方々はGJだったと思います。 所々で町山を援護射撃しているフォロワーが絡んでいましたが、彼らに支えてもらわなければ、もはや立っているのもやっとという状態にまで追い込んでいると思います。 「変なのが絡んできて大変ですね」的にヨイショする腰巾着フォロワーが、全く見当外れなことを書いている(援護射撃になっていない)という構図は、トッキーさんにロックオンされた柴山昌彦と同じですね。 「映画評論家」という肩書きがあればこそ、その発言に注目を集めることができていたわけですが、その肩書きや実績をフイにしてしまいかねませんよね。 こういった「自分の専門外の分野」に言及し、本業の評価を左右するにまで到った、という例。 あくまで個人的な感覚ですが、『美味しんぼ』の原作者・雁屋哲が思い浮かびます。 雁屋は反日的な極左として知られ、『美味しんぼ』でもたびたびそのような描写は見られましたが、そこではないです。 もはや忘れられているかもしれませんが、東日本大震災の後にマスコミでも取り上げられた「鼻血問題」です。 その信憑性について、雁屋は「最後まで読めば、批判している人間は卒倒するだろう」と強気なメッセージを出していましたが、全くの空振りで連載は休止に。 その後、『美味しんぼ「鼻血問題」にこたえる』という本で雁屋は説明をしたわけですが、これがトンデモ本でした。 何しろ、肝心のデータが何一つ書かれていません。 線量計を持参して福島に行ったそうですが、地域ごとの放射線量や鼻血を出した人間の数といったデータは全くなし。 そこをすっ飛ばして、ひたすら「私がウソを書いたというのですか」「風評被害を受けたのは私だ」と、被害者面した文章を綴る、というよもやの態度に終始。 よほど、自分の表現した内容が批判されたことが、気に食わなかった、あるいはプライドを傷つけられたのだな、と感じました。 こんなトンデモ本で「脱原発」を訴えられても、迷惑この上ありません。 そこで思ったこと。 『美味しんぼ』もこういう独善的な態度で創作していたんだな、と。 結論ありきの一面的な取材が多かったのではないか、ろくに記録を残していないのではないか、「世のため」という意識はゼロで主観的な自説を主張したかっただけではないか、と。 こうして私にとっては、『美味しんぼ』は全く価値がない漫画へと成り下がりました。 町山も雁屋も、本業で評価されて調子に乗ってしまったのか、「この私が言うことだから」という権威主義に陥っているのだと思います。 本業はもちろんのこと、専門外の分野に関しても(というより、専門外だからこそ)、真摯な態度が必要なはずなのですが。 なまじネットでフォロワーからチヤホヤされるものだから、現状を認めてもらっている気分になるのだと思います。 やはり、知性のない人間がネットにハマると、とんでもなく醜悪になりますね。
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トッキーさんの「町山智弘がぶっ壊れてきた」というブログを読み、Twitterの方を参照してみました。
私はTwitterは全く利用していないので、短文の羅列に頭がクラクラしてきました。
該当のツイートを発見し、スレッドを読んでみたのですが、町山とそのフォロワーによる知性ゼロのレスで、また頭がクラクラしてきました。
やはり私にはTwitterは合わない、感情が劣化してしまう、トッキーさんや『ゴー宣』読者の方々はよくこういうのを読んで気が変にならないなあ、などと感じましたが、それはともかく読んで思ったことを書きます。
もし、良識ある人間があのツイートを読んだとしたら、今後は町山智弘の映画評論を読もうとは思わないでしょう。
専門外のトピックとはいえ、ここまで反知性的な文章を書き、論理的な批判にきちんと答えられない人間が書く映画評論には価値がないと判断するのが当たり前だからです。
また、神話の寓意性を理解出来ない人間が、フィクションである映画を評論できるのか、と思われても仕方がありません。
町山のああいった言葉や態度を引き出した、『ゴー宣』読者の方々はGJだったと思います。
所々で町山を援護射撃しているフォロワーが絡んでいましたが、彼らに支えてもらわなければ、もはや立っているのもやっとという状態にまで追い込んでいると思います。
「変なのが絡んできて大変ですね」的にヨイショする腰巾着フォロワーが、全く見当外れなことを書いている(援護射撃になっていない)という構図は、トッキーさんにロックオンされた柴山昌彦と同じですね。
「映画評論家」という肩書きがあればこそ、その発言に注目を集めることができていたわけですが、その肩書きや実績をフイにしてしまいかねませんよね。
こういった「自分の専門外の分野」に言及し、本業の評価を左右するにまで到った、という例。
あくまで個人的な感覚ですが、『美味しんぼ』の原作者・雁屋哲が思い浮かびます。
雁屋は反日的な極左として知られ、『美味しんぼ』でもたびたびそのような描写は見られましたが、そこではないです。
もはや忘れられているかもしれませんが、東日本大震災の後にマスコミでも取り上げられた「鼻血問題」です。
その信憑性について、雁屋は「最後まで読めば、批判している人間は卒倒するだろう」と強気なメッセージを出していましたが、全くの空振りで連載は休止に。
その後、『美味しんぼ「鼻血問題」にこたえる』という本で雁屋は説明をしたわけですが、これがトンデモ本でした。
何しろ、肝心のデータが何一つ書かれていません。
線量計を持参して福島に行ったそうですが、地域ごとの放射線量や鼻血を出した人間の数といったデータは全くなし。
そこをすっ飛ばして、ひたすら「私がウソを書いたというのですか」「風評被害を受けたのは私だ」と、被害者面した文章を綴る、というよもやの態度に終始。
よほど、自分の表現した内容が批判されたことが、気に食わなかった、あるいはプライドを傷つけられたのだな、と感じました。
こんなトンデモ本で「脱原発」を訴えられても、迷惑この上ありません。
そこで思ったこと。
『美味しんぼ』もこういう独善的な態度で創作していたんだな、と。
結論ありきの一面的な取材が多かったのではないか、ろくに記録を残していないのではないか、「世のため」という意識はゼロで主観的な自説を主張したかっただけではないか、と。
こうして私にとっては、『美味しんぼ』は全く価値がない漫画へと成り下がりました。
町山も雁屋も、本業で評価されて調子に乗ってしまったのか、「この私が言うことだから」という権威主義に陥っているのだと思います。
本業はもちろんのこと、専門外の分野に関しても(というより、専門外だからこそ)、真摯な態度が必要なはずなのですが。
なまじネットでフォロワーからチヤホヤされるものだから、現状を認めてもらっている気分になるのだと思います。
やはり、知性のない人間がネットにハマると、とんでもなく醜悪になりますね。