時浦さんの「コンテンツか、作品か。」について。 本居宣長の言葉に、 「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」 というのがあるそうです。 これを著書に引用した小林秀雄によれば、 「当時の学者は、大義という事をしきりに言った」。 宣長は、その世の学者たちに第一と思われている大義(意)なんぞは、いくらでも口真似ができるもので、たいして価値あるものではないと。 言葉(姿)にこそ、唯一無二の価値があると。 彼は、万葉集や古事記をコンテンツとしてではなく、作品として読んだ、ということなのでしょう。 現代でも、保守だのリベラルだのの大義は、世の識者たちに、易く口真似されているようです。 思想というものも、作品のように、生身の人間の唯一無二の、生きた考えとして扱わなければ、たちまちただの口真似に、思想という名の思考停止に堕してしまう。これは誰にでもあり得ることだと思います。本居宣長のような偉人でなければ。 それほど「意ハ似セ易シ」だと。
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時浦さんの「コンテンツか、作品か。」について。
本居宣長の言葉に、
「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」
というのがあるそうです。
これを著書に引用した小林秀雄によれば、
「当時の学者は、大義という事をしきりに言った」。
宣長は、その世の学者たちに第一と思われている大義(意)なんぞは、いくらでも口真似ができるもので、たいして価値あるものではないと。
言葉(姿)にこそ、唯一無二の価値があると。
彼は、万葉集や古事記をコンテンツとしてではなく、作品として読んだ、ということなのでしょう。
現代でも、保守だのリベラルだのの大義は、世の識者たちに、易く口真似されているようです。
思想というものも、作品のように、生身の人間の唯一無二の、生きた考えとして扱わなければ、たちまちただの口真似に、思想という名の思考停止に堕してしまう。これは誰にでもあり得ることだと思います。本居宣長のような偉人でなければ。
それほど「意ハ似セ易シ」だと。