今週も配信ありがとうございます。 命に関わる体操競技では、集中力を途切れさせないためにも体罰は必要ではないか、というよしりん先生の主張、非常に説得力がありました。 実際に問題となったコーチの体罰が、明らかに行き過ぎであり、「体操指導者は、まずアントニオ猪木の殴り方を研究した方がいい」という示唆も、ユーモアが交えてあってなるほどと思いました。 「派手な音はするけど、そこまで痛くはない。ケガもしない」という殴り方――いわば「気付かせ」「意識付け」ということが目的であり、それで真っ先に思いついたのが座禅です。 心が乱れると、それを察知した僧侶がパシッと背中を棒のようなもの(警策というそうです)で叩いてきますが、すごくいい音がしますよね。 あれで本人のみならず、周りの人間も自己を戒めながら、座禅に取り組むのだろうと思いますが、恐らく「ムチャクチャ痛い」わけではないようです(やったことありませんが)。 やはり、「心が乱れてしまった」ということを意識させてくれる、ひとつの装置なのだろう、と。 つまり、指導される側の「意識付け」を目的とするならば、体罰にもグラデーションがあって当然、ということになるのでしょう。 「殴る蹴る」というのは、指導者が感情的、諧謔的になっている可能性があり、目的から大きく逸脱してしまっています。 まずは指導者が己をコントロールできるのかどうか、というのが、問われるべき資質なのだろうと思いました。
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小林よしのりチャンネル
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今週も配信ありがとうございます。
命に関わる体操競技では、集中力を途切れさせないためにも体罰は必要ではないか、というよしりん先生の主張、非常に説得力がありました。
実際に問題となったコーチの体罰が、明らかに行き過ぎであり、「体操指導者は、まずアントニオ猪木の殴り方を研究した方がいい」という示唆も、ユーモアが交えてあってなるほどと思いました。
「派手な音はするけど、そこまで痛くはない。ケガもしない」という殴り方――いわば「気付かせ」「意識付け」ということが目的であり、それで真っ先に思いついたのが座禅です。
心が乱れると、それを察知した僧侶がパシッと背中を棒のようなもの(警策というそうです)で叩いてきますが、すごくいい音がしますよね。
あれで本人のみならず、周りの人間も自己を戒めながら、座禅に取り組むのだろうと思いますが、恐らく「ムチャクチャ痛い」わけではないようです(やったことありませんが)。
やはり、「心が乱れてしまった」ということを意識させてくれる、ひとつの装置なのだろう、と。
つまり、指導される側の「意識付け」を目的とするならば、体罰にもグラデーションがあって当然、ということになるのでしょう。
「殴る蹴る」というのは、指導者が感情的、諧謔的になっている可能性があり、目的から大きく逸脱してしまっています。
まずは指導者が己をコントロールできるのかどうか、というのが、問われるべき資質なのだろうと思いました。