最近のクレヨンには「肌色」が「ペールオレンジ」と記載されているそうですね。人によっては「肌の色はそれぞれだし、昔から緑色を『ビリジアン』と呼んでいたからヘンじゃないだろう」と言うかもしれません。ですが私は行き過ぎた合理化ではないかと思っています。 昔の「みんなのうた」に「ないないクレヨン」という歌があって、その中に、 僕の クレヨン はだ色も ない しかたが ないから 黄緑で ぬる だから お母さん かえる みたい というのがありました。ユーモアのある歌だったなあと今でも思ってます。(他の人にはトラウマだったかも知れませんが) 今の時代において、この歌は不適切だということになってしまうのでしょうか。言葉に限らず、何もかもを過剰に合理化させてしまえば、人々から想像力や情緒を奪ってしまうことになるのではないかと懸念しています。
チャンネルに入会
フォロー
小林よしのりチャンネル
(ID:975653)
最近のクレヨンには「肌色」が「ペールオレンジ」と記載されているそうですね。人によっては「肌の色はそれぞれだし、昔から緑色を『ビリジアン』と呼んでいたからヘンじゃないだろう」と言うかもしれません。ですが私は行き過ぎた合理化ではないかと思っています。
昔の「みんなのうた」に「ないないクレヨン」という歌があって、その中に、
僕の クレヨン はだ色も ない
しかたが ないから 黄緑で ぬる
だから お母さん かえる みたい
というのがありました。ユーモアのある歌だったなあと今でも思ってます。(他の人にはトラウマだったかも知れませんが)
今の時代において、この歌は不適切だということになってしまうのでしょうか。言葉に限らず、何もかもを過剰に合理化させてしまえば、人々から想像力や情緒を奪ってしまうことになるのではないかと懸念しています。