今週も配信ありがとうございます! お疲れ様です。 「ゴー宣」読みました。 「顔も見えない、匿名のネット空間の不気味さ・恐ろしさ」、 「共同体・社会の横軸・歴史の縦軸との繋がりが一切無くなった者は「獣を染み出す」」 ということを改めてひしひしと感じました。 「世間」という言葉はあまり好きではありませんが、 「世間」との繋がりを断った者がネットにのめりこんで、どんどんバランスを失い、狂気を育んでしまう、 砂粒の個だらけの現代、ネット・スマホが普及して当たり前になってしまった現代では十分にあり得ることです。だからこそ怖いことです。 いくら言葉を消したところで、言葉を言い換えたところで、 実際に「気違い」がいなくなる訳でもなく、 むしろ、いるのに「いない」かのようになっていく世の中の方が怖いです。 まさに、ディストピアです。 昔は精神疾患や精神障害と「気違い」がごっちゃに扱われていた・・・その偏見は払拭していく必要がありますが、 それは、言葉を消すことではない、ということを改めて思いました。 自分の子供時代、亡き祖父母や大人たちは、現在では「言葉狩り」されてしまって、 マスメディアや作品からは姿を消してしまったような言葉を普通に使っていましたが、 例えば「びっこ」という言葉にしても、差別的な意図で使っていた場面よりも、 相手を労わる場面で使っていたことの方がよく思い出されます。 片足を怪我した時などに「あら、びっこひいてかわいそうにねえ」という言い方で労わられたりとか・・・。 現代の、マスメディアや作品でどんどん言葉狩りがされ、自主規制され、コンプライアンスでガチガチに固められ、 その一方で、ネットの匿名空間の中だけでは差別語やスラングが溢れ返る、という状況は、著しくバランスを欠いた歪な状態だと改めて思います。 結局、ネットの匿名空間の中などでは、精神疾患や精神障害と「気違い」を、わざとごっちゃにして面白がっているような歪な状態が蔓延しています。 言葉を消したり、コンプライアンスで縛ったりしていっても、どうしようもないのです。 また、ポリコレ全体主義が行き過ぎる程、一方でそれに反するものが一気にマグマのように吹き出すことも今後考えられます。 そして「気違い」に実際に出会ってしまった時の恐ろしさを想像してしまいます。 この御時世、どこでそういう人物に出会ってしまうか分からないということは、本当に怖いことです。 ネットで他人を罵倒することでしか存在意義・承認欲求を満たせないようになってしまった人物は、哀れではありますが、 そういう「気違い」の一方的な憎悪にいつどこで巻き込まれるか分からないということも、たまったものではありません。 共同体の崩壊が進む現状は、なんとかしなければならない、とは思うのですが、 そこに政府などが介入して制度でなんとかしていく、というのも、何か違うように思えます。 ただ、自分の身は自分で守るしかない、 守るべき人がいれば、その人も守る、その覚悟は一層重要になってくる、ということを改めて肝に銘じるようにしたいと思いました。 「トンデモ見聞録」読みました。 自分達の感性から何が奪われたのか分からない・何が消滅しているのか分からない状態が蔓延化していくということは、本当に恐ろしい事です。 北朝鮮や中国やロシアを笑えません。 表現の自由があるはずだと思っていた日本でも、何が規制されたのか分からないうちに、いろんなものが規制されていっている現状があるということが恐怖です。 そして、写真家は体力勝負、よく分かります。写真家ではないので現場を知っている訳でもないのですが、想像はつきます。 かつて、測量の補助の仕事をしていたことがありました。 その時は、重くて高価な測量の機材を担いで、山登りをして測量の現場に行っていました。 スポーツも苦手で、体育会系とは真逆の人生を送って来た自分が、よくあんなこと出来たなと振り返って思います(苦笑)。 実際、やっていたのは短期間だけで、ガタイのいい人達に助けられながらなんとかやっていた、アブラムシに過ぎなかった訳ですが・・・(汗)。 「シャイニング」は見たことがあります。 ホラー映画苦手な私が見た数少ないホラー映画の一つですが、滅茶苦茶怖かったです。 ジャック・ニコルソンの鬼気迫る演技が、もう怖くて怖くて・・・(汗)。 双子の登場シーンもトラウマです(汗)。 そして、今回「トンデモ見聞録」で泉美先生が取り上げてくださったダイアン・アーバスの世界、 「見世物小屋にいるような人達を見世物にするな」という批判は、まさに「偽善」だと思いました。 当時の障害者の人達は、今以上に差別に晒されて傷つけられることが多かっただろうと思います。 そんな中で、写真を撮るダイアン・アーバスに、こんな心を開いた表情をみせているということが、 ダイアン・アーバスが彼らを撮る時の姿勢というものがどれだけのものだったか、ということが伝わってきます。 もしも、将来、アーバスの写真が規制されて、見ることが出来なくなってしまったら・・・ という危惧も頭を過るのですが、 現在の写真家にはアーバスのような写真を撮ること自体がそもそも難しいだろうな、ということも思います。 そういえば、現在の行き過ぎた自主規制・コンプライアンスについて、 中井貴一氏のドラマの話題がニュースになっていました。 「片手にピストルを持って、人を撃ち殺しに行く役」を演じた時に、 タバコを投げ捨てようとしたら、 「コンプライアンス的に問題がある」と言われてしまったことがあったそうです。 中井貴一氏は「ピストルを持って殺しに行くのに、タバコの投げ捨てはダメ?ちょっと訳が分からなくなってきた」というようなことを仰っておりましたが、 今では、例えばピカレスク小説のドラマ化というのは相当に難しいのでしょうね・・・。 そのうち、映画もそういうテーマでは撮れなくなってくるのかもしれません。 追伸:Q&A、たくさん回答して戴いてありがとうございます。 「訴訟を起こされたらカネがいる」・・・自主規制もコンプライアンスも、この先どんどんガチガチになっていきそうですね(汗)。 小林先生のお墓参りの写真は、前号で見て、思わず笑っちゃいました。 不謹慎というか、小林先生ならではの「茶目っ気」のようなものを感じました。 あと、別の方の質問で、「平凡を馬鹿にし過ぎる」という回答が心に残りました。 誰にでも普通にある「個別性」と、ごく限られた人にしかない「個性」(というか、才能)を、ごっちゃにする風潮は良くないですね。
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今週も配信ありがとうございます!
お疲れ様です。
「ゴー宣」読みました。
「顔も見えない、匿名のネット空間の不気味さ・恐ろしさ」、
「共同体・社会の横軸・歴史の縦軸との繋がりが一切無くなった者は「獣を染み出す」」
ということを改めてひしひしと感じました。
「世間」という言葉はあまり好きではありませんが、
「世間」との繋がりを断った者がネットにのめりこんで、どんどんバランスを失い、狂気を育んでしまう、
砂粒の個だらけの現代、ネット・スマホが普及して当たり前になってしまった現代では十分にあり得ることです。だからこそ怖いことです。
いくら言葉を消したところで、言葉を言い換えたところで、
実際に「気違い」がいなくなる訳でもなく、
むしろ、いるのに「いない」かのようになっていく世の中の方が怖いです。
まさに、ディストピアです。
昔は精神疾患や精神障害と「気違い」がごっちゃに扱われていた・・・その偏見は払拭していく必要がありますが、
それは、言葉を消すことではない、ということを改めて思いました。
自分の子供時代、亡き祖父母や大人たちは、現在では「言葉狩り」されてしまって、
マスメディアや作品からは姿を消してしまったような言葉を普通に使っていましたが、
例えば「びっこ」という言葉にしても、差別的な意図で使っていた場面よりも、
相手を労わる場面で使っていたことの方がよく思い出されます。
片足を怪我した時などに「あら、びっこひいてかわいそうにねえ」という言い方で労わられたりとか・・・。
現代の、マスメディアや作品でどんどん言葉狩りがされ、自主規制され、コンプライアンスでガチガチに固められ、
その一方で、ネットの匿名空間の中だけでは差別語やスラングが溢れ返る、という状況は、著しくバランスを欠いた歪な状態だと改めて思います。
結局、ネットの匿名空間の中などでは、精神疾患や精神障害と「気違い」を、わざとごっちゃにして面白がっているような歪な状態が蔓延しています。
言葉を消したり、コンプライアンスで縛ったりしていっても、どうしようもないのです。
また、ポリコレ全体主義が行き過ぎる程、一方でそれに反するものが一気にマグマのように吹き出すことも今後考えられます。
そして「気違い」に実際に出会ってしまった時の恐ろしさを想像してしまいます。
この御時世、どこでそういう人物に出会ってしまうか分からないということは、本当に怖いことです。
ネットで他人を罵倒することでしか存在意義・承認欲求を満たせないようになってしまった人物は、哀れではありますが、
そういう「気違い」の一方的な憎悪にいつどこで巻き込まれるか分からないということも、たまったものではありません。
共同体の崩壊が進む現状は、なんとかしなければならない、とは思うのですが、
そこに政府などが介入して制度でなんとかしていく、というのも、何か違うように思えます。
ただ、自分の身は自分で守るしかない、
守るべき人がいれば、その人も守る、その覚悟は一層重要になってくる、ということを改めて肝に銘じるようにしたいと思いました。
「トンデモ見聞録」読みました。
自分達の感性から何が奪われたのか分からない・何が消滅しているのか分からない状態が蔓延化していくということは、本当に恐ろしい事です。
北朝鮮や中国やロシアを笑えません。
表現の自由があるはずだと思っていた日本でも、何が規制されたのか分からないうちに、いろんなものが規制されていっている現状があるということが恐怖です。
そして、写真家は体力勝負、よく分かります。写真家ではないので現場を知っている訳でもないのですが、想像はつきます。
かつて、測量の補助の仕事をしていたことがありました。
その時は、重くて高価な測量の機材を担いで、山登りをして測量の現場に行っていました。
スポーツも苦手で、体育会系とは真逆の人生を送って来た自分が、よくあんなこと出来たなと振り返って思います(苦笑)。
実際、やっていたのは短期間だけで、ガタイのいい人達に助けられながらなんとかやっていた、アブラムシに過ぎなかった訳ですが・・・(汗)。
「シャイニング」は見たことがあります。
ホラー映画苦手な私が見た数少ないホラー映画の一つですが、滅茶苦茶怖かったです。
ジャック・ニコルソンの鬼気迫る演技が、もう怖くて怖くて・・・(汗)。
双子の登場シーンもトラウマです(汗)。
そして、今回「トンデモ見聞録」で泉美先生が取り上げてくださったダイアン・アーバスの世界、
「見世物小屋にいるような人達を見世物にするな」という批判は、まさに「偽善」だと思いました。
当時の障害者の人達は、今以上に差別に晒されて傷つけられることが多かっただろうと思います。
そんな中で、写真を撮るダイアン・アーバスに、こんな心を開いた表情をみせているということが、
ダイアン・アーバスが彼らを撮る時の姿勢というものがどれだけのものだったか、ということが伝わってきます。
もしも、将来、アーバスの写真が規制されて、見ることが出来なくなってしまったら・・・
という危惧も頭を過るのですが、
現在の写真家にはアーバスのような写真を撮ること自体がそもそも難しいだろうな、ということも思います。
そういえば、現在の行き過ぎた自主規制・コンプライアンスについて、
中井貴一氏のドラマの話題がニュースになっていました。
「片手にピストルを持って、人を撃ち殺しに行く役」を演じた時に、
タバコを投げ捨てようとしたら、
「コンプライアンス的に問題がある」と言われてしまったことがあったそうです。
中井貴一氏は「ピストルを持って殺しに行くのに、タバコの投げ捨てはダメ?ちょっと訳が分からなくなってきた」というようなことを仰っておりましたが、
今では、例えばピカレスク小説のドラマ化というのは相当に難しいのでしょうね・・・。
そのうち、映画もそういうテーマでは撮れなくなってくるのかもしれません。
追伸:Q&A、たくさん回答して戴いてありがとうございます。
「訴訟を起こされたらカネがいる」・・・自主規制もコンプライアンスも、この先どんどんガチガチになっていきそうですね(汗)。
小林先生のお墓参りの写真は、前号で見て、思わず笑っちゃいました。
不謹慎というか、小林先生ならではの「茶目っ気」のようなものを感じました。
あと、別の方の質問で、「平凡を馬鹿にし過ぎる」という回答が心に残りました。
誰にでも普通にある「個別性」と、ごく限られた人にしかない「個性」(というか、才能)を、ごっちゃにする風潮は良くないですね。