今週も配信ありがとうございます! お疲れ様です。 「ゴー宣」読みました。 かつて、1997年(平成9年)の神戸連続児童殺傷事件をゴー宣で扱った時も、 鋭い分析と、小林先生ならではの常識を柱とする描写が印象的でした。 今号も深く考えさせられますし、唸らされました。 まず、犯人の発達障害という病と、犯人が犯した許し難い犯行とは別に考えなければならないということ、 その一方で、共同体から断ち切られてしまった浮遊する個が、いかに危ういか、ということを考えさせられました。 そして、自分の命を犠牲にして、若い女性二人を含む多くの乗客を救った梅田耕太郎さんのことを、 「英雄として末永く顕彰しなければならない」という表現に胸をうたれました。 自分がもしも、梅田さんの立場におかれていたら、どうだったか・・・ 自分は武道の心得も一切なく、それどころか、非力なヘタレ男です。 それでも、いざとなったら、やはり女性や子供を守って、自らが盾になる行動を取るのが、本来の男としての役割です。 しかし、頭でそう思っていても、 実際にそんな立場におかれたら、震えて、ヘタれて、何も出来ないと思います。 それどころか、とんでもない卑怯をやらかしてしまう事もあり得ます。 やはり、日頃からの構え、行いというのは大事なのだなと思います。 高森先生のブログを読んだ時も思いました。 高森先生らしく、と言いますか、 読んでいて笑いを交えられるような表現でブログを綴っておられましたが、 優先席をお年寄りや身体の不自由な人や妊婦の方などに譲る、という行為も、 頭で思っているだけでなく、日頃から心掛けておいて身につく行為だと思います。 私自身、高森先生には遠く及ばず、全然徹底出来ていないと反省します。 小林先生自身も、西部邁先生との対談でもあったかと思いますが、 日頃から律しておられることがあるのだと思います。 勿論、小林先生を、聖人君子に祭り上げようなどとは一切思いません。 高森先生もそうだと思いますが、 清濁併せ呑むのが人間で、 だからこそ、敢えて己を律する、という姿勢が大事になってくるのかな、と。 いざとなったら誰かを庇って自分が盾になる、ということも、 いきなりそれが出来る訳でもなく、 思っていたから出来る訳でもなく、 それよりももっともっと前の段階から、少しずつ日頃から心掛けて、 ようやくそこに辿り着けるか否か、ということなのかな、と思ったりします。 そして、発達障害のことと、親子のこと、共同体のことですが、 発達障害やアスペルガー症候群のように、生まれついての障害もありますし、 後天的な障害もあります。 今では昔と比べて、いろいろなことが分かって行って、 障害や病気への理解も進んでいるとは思いますが、 親子関係や共同体の希薄化は、ここ数年のことではなく、 もう随分前から萌芽があって、 現代にはどんどん深刻になっていっていることだと思います。 許されざる犯罪を犯してしまった者は、相応の罰を受けるべきで、 小島一朗も報いを受けて裁かれなければなりません。 しかし、発達障害を抱えた子を突き放した親の責任もあるでしょう。 神戸連続児童殺傷事件の時のように、犯人だけでなく、 その親兄弟まで、世間から石もて追われるようになってしまうのかもしれません。 しかし、それよりも、 殺されてしまった梅田さん、梅田さんの御家族、 怪我を負ってしまった方々が気の毒でなりません。 犯人が地獄に堕ちるのは報いから当然ではありますが、 犯人の親族の方々も辛い目にあっていくでしょう。 そして被害に遭ってしまった方々は、 それ以上に辛い目にあっていくでしょう。 何とも、やりきれない気持ちです。 「トンデモ見聞録」読みました。 山下清氏については、自伝は読んだことがないのですが、 芦屋雁之助氏が演じるドラマはよく見ていました。 しかし、山下清氏本人の自伝を読んでみたくなりました。 ヘンリー・ダーガーについては、恥ずかしながら知りませんでした。 しかし、晩年のダーガーの述懐を見ると、 私が幼い頃にはまだ存命だった人だと知りました。 そして、映画俳優、テレビスター、文筆家、アーティスト、映画監督、芸術家・・・etc.に、 現代には「大物」が生まれ辛くなってしまっている背景の一端を感じました。 ダーガー以外にも、芸術家には、生きているうちには全く評価されず、 亡くなってから評価が高くなった人がたくさんいます。 そんな芸術家達も、もし恵まれた環境に生きていたら、 その芸術を生み出せたかどうか、ということを想像してみると、 もしかしたら出来なかったかもしれない、と思うこともあります。 それも、私自身が平凡に生きている凡人だから、 分からないことかもしれません。 同じ才人、表現者としての土俵に立ったからこそ、 それが理解できることもあるのかもしれません。 私は、若い頃は「個性」に憧れてしまったことがありましたが、 それは、一人一人が普通に誰しもが持っている「個別性」ではなく、 一握りの才人や表現者しか持ちえない「個性」への叶わない憧れだったのだと、 何年かかかって、ようやく気付いたところもあります。 「個性」を持ってしまったが故に、不自由になってしまった才人は数多いるのでしょう。 そして「個性」を持ってしまった才人も、 「個性」を持たなかった他の人達同様に、普通に生きていくことへの自然な欲求というものはあったのでしょう。 しかし、その才能が、普通に生きることを許さなかった、 というか、普通に生きられなかったからこそ、その才能が開花した、 その才能が生み出した偉大な芸術に感化されて、我々の文化が豊かになって行っている、 何とも皮肉なもので、もの悲しさを感じずにはいられません。 それを考える一方で、 共謀罪やセクハラ全体主義のような巨大な動きが、 表現を一層やせ細らせていく動きには物凄く危惧を覚えます。 それは、表現をやせ細らせていくだけではなく、 その縛りの下で生きている遍く人達を、 のっぺりとした「ニンゲン」にしていってしまうからだと思います。 また逆に、その強大な縛りがあることで、 反対方向に強烈に作用するマグマが噴出すると思います。 これも恐ろしい事です。 これは、小林先生の「よしりん辻説法」を読んで気付かされたことです。 追伸:Q&Aコーナー、今週も回答ありがとうございます。 今回は特に、小林先生からの回答が予想外で驚きました。 私以外のQ&Aで気になったのは、受動喫煙のことですね。 私も喘息持ちなので、タバコ大嫌いですが、 小林先生が仰るように、喫煙ファシズムには自分も加担したくありません。 「よしりん辻説法」「ゴーマニズム宣言」(SPA!)の感想の方は、また改めて。
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今週も配信ありがとうございます!
お疲れ様です。
「ゴー宣」読みました。
かつて、1997年(平成9年)の神戸連続児童殺傷事件をゴー宣で扱った時も、
鋭い分析と、小林先生ならではの常識を柱とする描写が印象的でした。
今号も深く考えさせられますし、唸らされました。
まず、犯人の発達障害という病と、犯人が犯した許し難い犯行とは別に考えなければならないということ、
その一方で、共同体から断ち切られてしまった浮遊する個が、いかに危ういか、ということを考えさせられました。
そして、自分の命を犠牲にして、若い女性二人を含む多くの乗客を救った梅田耕太郎さんのことを、
「英雄として末永く顕彰しなければならない」という表現に胸をうたれました。
自分がもしも、梅田さんの立場におかれていたら、どうだったか・・・
自分は武道の心得も一切なく、それどころか、非力なヘタレ男です。
それでも、いざとなったら、やはり女性や子供を守って、自らが盾になる行動を取るのが、本来の男としての役割です。
しかし、頭でそう思っていても、
実際にそんな立場におかれたら、震えて、ヘタれて、何も出来ないと思います。
それどころか、とんでもない卑怯をやらかしてしまう事もあり得ます。
やはり、日頃からの構え、行いというのは大事なのだなと思います。
高森先生のブログを読んだ時も思いました。
高森先生らしく、と言いますか、
読んでいて笑いを交えられるような表現でブログを綴っておられましたが、
優先席をお年寄りや身体の不自由な人や妊婦の方などに譲る、という行為も、
頭で思っているだけでなく、日頃から心掛けておいて身につく行為だと思います。
私自身、高森先生には遠く及ばず、全然徹底出来ていないと反省します。
小林先生自身も、西部邁先生との対談でもあったかと思いますが、
日頃から律しておられることがあるのだと思います。
勿論、小林先生を、聖人君子に祭り上げようなどとは一切思いません。
高森先生もそうだと思いますが、
清濁併せ呑むのが人間で、
だからこそ、敢えて己を律する、という姿勢が大事になってくるのかな、と。
いざとなったら誰かを庇って自分が盾になる、ということも、
いきなりそれが出来る訳でもなく、
思っていたから出来る訳でもなく、
それよりももっともっと前の段階から、少しずつ日頃から心掛けて、
ようやくそこに辿り着けるか否か、ということなのかな、と思ったりします。
そして、発達障害のことと、親子のこと、共同体のことですが、
発達障害やアスペルガー症候群のように、生まれついての障害もありますし、
後天的な障害もあります。
今では昔と比べて、いろいろなことが分かって行って、
障害や病気への理解も進んでいるとは思いますが、
親子関係や共同体の希薄化は、ここ数年のことではなく、
もう随分前から萌芽があって、
現代にはどんどん深刻になっていっていることだと思います。
許されざる犯罪を犯してしまった者は、相応の罰を受けるべきで、
小島一朗も報いを受けて裁かれなければなりません。
しかし、発達障害を抱えた子を突き放した親の責任もあるでしょう。
神戸連続児童殺傷事件の時のように、犯人だけでなく、
その親兄弟まで、世間から石もて追われるようになってしまうのかもしれません。
しかし、それよりも、
殺されてしまった梅田さん、梅田さんの御家族、
怪我を負ってしまった方々が気の毒でなりません。
犯人が地獄に堕ちるのは報いから当然ではありますが、
犯人の親族の方々も辛い目にあっていくでしょう。
そして被害に遭ってしまった方々は、
それ以上に辛い目にあっていくでしょう。
何とも、やりきれない気持ちです。
「トンデモ見聞録」読みました。
山下清氏については、自伝は読んだことがないのですが、
芦屋雁之助氏が演じるドラマはよく見ていました。
しかし、山下清氏本人の自伝を読んでみたくなりました。
ヘンリー・ダーガーについては、恥ずかしながら知りませんでした。
しかし、晩年のダーガーの述懐を見ると、
私が幼い頃にはまだ存命だった人だと知りました。
そして、映画俳優、テレビスター、文筆家、アーティスト、映画監督、芸術家・・・etc.に、
現代には「大物」が生まれ辛くなってしまっている背景の一端を感じました。
ダーガー以外にも、芸術家には、生きているうちには全く評価されず、
亡くなってから評価が高くなった人がたくさんいます。
そんな芸術家達も、もし恵まれた環境に生きていたら、
その芸術を生み出せたかどうか、ということを想像してみると、
もしかしたら出来なかったかもしれない、と思うこともあります。
それも、私自身が平凡に生きている凡人だから、
分からないことかもしれません。
同じ才人、表現者としての土俵に立ったからこそ、
それが理解できることもあるのかもしれません。
私は、若い頃は「個性」に憧れてしまったことがありましたが、
それは、一人一人が普通に誰しもが持っている「個別性」ではなく、
一握りの才人や表現者しか持ちえない「個性」への叶わない憧れだったのだと、
何年かかかって、ようやく気付いたところもあります。
「個性」を持ってしまったが故に、不自由になってしまった才人は数多いるのでしょう。
そして「個性」を持ってしまった才人も、
「個性」を持たなかった他の人達同様に、普通に生きていくことへの自然な欲求というものはあったのでしょう。
しかし、その才能が、普通に生きることを許さなかった、
というか、普通に生きられなかったからこそ、その才能が開花した、
その才能が生み出した偉大な芸術に感化されて、我々の文化が豊かになって行っている、
何とも皮肉なもので、もの悲しさを感じずにはいられません。
それを考える一方で、
共謀罪やセクハラ全体主義のような巨大な動きが、
表現を一層やせ細らせていく動きには物凄く危惧を覚えます。
それは、表現をやせ細らせていくだけではなく、
その縛りの下で生きている遍く人達を、
のっぺりとした「ニンゲン」にしていってしまうからだと思います。
また逆に、その強大な縛りがあることで、
反対方向に強烈に作用するマグマが噴出すると思います。
これも恐ろしい事です。
これは、小林先生の「よしりん辻説法」を読んで気付かされたことです。
追伸:Q&Aコーナー、今週も回答ありがとうございます。
今回は特に、小林先生からの回答が予想外で驚きました。
私以外のQ&Aで気になったのは、受動喫煙のことですね。
私も喘息持ちなので、タバコ大嫌いですが、
小林先生が仰るように、喫煙ファシズムには自分も加担したくありません。
「よしりん辻説法」「ゴーマニズム宣言」(SPA!)の感想の方は、また改めて。