>>119 tasuuさん レスいただき、ありがとうございます。 端的に申しますと、「セクハラ」や「性的からかい」について、ご自身の周囲の日常という範囲でしか捉えられていないのではないか、という気がしました。 実際に目撃されたことがあるのかもしれませんが、それで「一般論」を語るのは無理があります。 『ゴー宣』でも書かれているように、福田前事務次官の「セクハラ」は職場では何とも思っておらず、福田は優秀な事務次官として部下から慕われていた、とのことです。 そういう「現場」は、そこら中にある、ということは「想像」できる必要があります。 「セクハラ問題」の報道の一環で、街行く女性に「セクハラを受けたことがありますか?」というインタビューが放送されており、その中で女性達は「しょっちゅう、上司に下着の色を聞かれる」「飲み会で脚を触られた」とあっけらかんと顔出しで回答していました。 彼女たちにとっては、何らトラウマを感じるものでもないのでしょう。 こういう実例があるから、「セクハラ」の可否はTPOによって千差万別、としか言いようがないのです。 「原則禁止」というのは、言われた側が「不快」であれば、ということでしょうか? それは単に「不道徳」「マナー違反」ということであり、それと「原則禁止」というのでは随分と意味において差があります。 よしりん先生は、「不道徳」ならば相手にその旨を指摘して、自分の言動が「恥」だったと気付かせるプロセスを経る必要がある、と主張されています。 自己を省みたり、釈明する機会すら与えずに、「原則禁止」と断じてしまうのは、もはや「一律禁止」と同じ事になります。 そして、我々が「現実的な周囲の日常」だけに囚われて、「セクハラ」を「原則禁止」と断じてしまうという動きは、寄せ集まって大きなうねりとなり、結果的には「芸術・文化」という世界で生きる才人を排除することに繋がってしまいます。 よしりん先生や木蘭先生が、さんざん訴えておられるのは、そういうことでしょう。 そんなの、小市民には想像することが難しいですか? いやいや、我々は「不倫」という「不道徳」に必要以上に反応して、山尾志桜里という才人を議員の座から追い落とす寸前にまで到ったではありませんか。 小市民の「周囲の日常」は、場合によっては視野がえらく狭まっていることがありうるわけですよ。 もし、「セクハラ」が「原則禁止」になれば、真っ先に思いつくのは、桑田佳祐は今までのようなパフォーマンスが出来なくなるな、ということです。 実際には「明るく笑えるエロパフォーマンス」であっても、「セクハラ」を誘発する可能性がある、と指摘されればそれでお終いです。 よしりん先生が、「セクハラ罪」なんてものが成立すれば「内心の自由」が束縛される、と主張されたのは、そういう意味でしょう。 いや、そこまで規制する意図はない、と言われても、「原則禁止」が定められればそこまで行き着いてしまうと思います。 アメリカの「外見で判断しないミスコン」という、笑えないジョークが好例でしょうかね。 結局、不道徳か否かについて、常に「TPO」が準拠となるからこそ、人間のコミュニケーションは多種多様に変化しながら続いていく、ということだと思います。 平安時代の日本では、男は女の元に夜這いしていましたが、これは今の時代では当然NGでしょう。 では、当時の男性を「色狂い」と非難することができるでしょうか? 女性に対して「何故、声を上げない?」という疑問を投げかけられるでしょうか? そういう「文化」のもとでの行為であり、それは時代によってその時々の人間が築き上げていくものだと思います。 「原則禁止」という発想は、「多様性」だけでなく、そうした「変化」すらも容認しない、という急進的な立場であるように感じます。 また、志村けんが『バカ殿様』で一時期を境に女性の裸を出すことをやめると決断したように、「時代性」を鑑みて、良識的な立場から方針を変えるということもあります。 志村けんは、そういうバランス感覚を持ち合わせているからこそ、幅広い世代に支持されているのでしょうが、要はそうした才人の「感覚」にある程度は任せてもよいのではないか、とも思います。 表現者はそういう「感覚」を研ぎ澄ませている方が多いでしょうし、そういう「変化」が徐々に人々の意識を変えていく(あるいは時代が変わっていく)ものなのではないでしょうか。 こうした観点においても、やはりタバコと「セクハラ」は異なります。 タバコが悪者扱いされたのは、健康被害が喧伝されたからでしょう。 それも「吸っている本人」だけではなく、傍にいる人間も副流煙の被害を受ける、という事実が明らかになったからであり、「文化」の変遷以前に「健康被害、まったなし」という切迫した状況が浮上したのだと思います。 今のような分煙体制が確立する遙か以前でも、食事や飲み会の席で「吸ってもいいですか?」と断るのは当たり前のマナーになっていました。 そういう意味では、「多数派に圧殺されてきた少数派」という構図には納得しかねます。 吸ってもいないのに煙の巻き添えになる、という事実が判明してからというもの、喫煙者に気を遣う非喫煙者というのは、私はほとんど見たことがありません。 私も当初は、テレ朝女性記者を擁護する内容の投稿を書き込みましたが、『ライジング』『辻説法』『ゴー宣』を読んですっかり変わってしまいました。 己の未熟さを恥じるばかり。 やはり「恥」を感じるのは、己の精進のために必要なのかなと思います。 「恥」は過去のもの、未来に向かって「意識」を変えていけばよいではないか、と。 そうやって「本人が変わる」可能性すら奪ってしまうから、「原則禁止」には全く賛成できません。
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>>119 tasuuさん
レスいただき、ありがとうございます。
端的に申しますと、「セクハラ」や「性的からかい」について、ご自身の周囲の日常という範囲でしか捉えられていないのではないか、という気がしました。
実際に目撃されたことがあるのかもしれませんが、それで「一般論」を語るのは無理があります。
『ゴー宣』でも書かれているように、福田前事務次官の「セクハラ」は職場では何とも思っておらず、福田は優秀な事務次官として部下から慕われていた、とのことです。
そういう「現場」は、そこら中にある、ということは「想像」できる必要があります。
「セクハラ問題」の報道の一環で、街行く女性に「セクハラを受けたことがありますか?」というインタビューが放送されており、その中で女性達は「しょっちゅう、上司に下着の色を聞かれる」「飲み会で脚を触られた」とあっけらかんと顔出しで回答していました。
彼女たちにとっては、何らトラウマを感じるものでもないのでしょう。
こういう実例があるから、「セクハラ」の可否はTPOによって千差万別、としか言いようがないのです。
「原則禁止」というのは、言われた側が「不快」であれば、ということでしょうか?
それは単に「不道徳」「マナー違反」ということであり、それと「原則禁止」というのでは随分と意味において差があります。
よしりん先生は、「不道徳」ならば相手にその旨を指摘して、自分の言動が「恥」だったと気付かせるプロセスを経る必要がある、と主張されています。
自己を省みたり、釈明する機会すら与えずに、「原則禁止」と断じてしまうのは、もはや「一律禁止」と同じ事になります。
そして、我々が「現実的な周囲の日常」だけに囚われて、「セクハラ」を「原則禁止」と断じてしまうという動きは、寄せ集まって大きなうねりとなり、結果的には「芸術・文化」という世界で生きる才人を排除することに繋がってしまいます。
よしりん先生や木蘭先生が、さんざん訴えておられるのは、そういうことでしょう。
そんなの、小市民には想像することが難しいですか?
いやいや、我々は「不倫」という「不道徳」に必要以上に反応して、山尾志桜里という才人を議員の座から追い落とす寸前にまで到ったではありませんか。
小市民の「周囲の日常」は、場合によっては視野がえらく狭まっていることがありうるわけですよ。
もし、「セクハラ」が「原則禁止」になれば、真っ先に思いつくのは、桑田佳祐は今までのようなパフォーマンスが出来なくなるな、ということです。
実際には「明るく笑えるエロパフォーマンス」であっても、「セクハラ」を誘発する可能性がある、と指摘されればそれでお終いです。
よしりん先生が、「セクハラ罪」なんてものが成立すれば「内心の自由」が束縛される、と主張されたのは、そういう意味でしょう。
いや、そこまで規制する意図はない、と言われても、「原則禁止」が定められればそこまで行き着いてしまうと思います。
アメリカの「外見で判断しないミスコン」という、笑えないジョークが好例でしょうかね。
結局、不道徳か否かについて、常に「TPO」が準拠となるからこそ、人間のコミュニケーションは多種多様に変化しながら続いていく、ということだと思います。
平安時代の日本では、男は女の元に夜這いしていましたが、これは今の時代では当然NGでしょう。
では、当時の男性を「色狂い」と非難することができるでしょうか?
女性に対して「何故、声を上げない?」という疑問を投げかけられるでしょうか?
そういう「文化」のもとでの行為であり、それは時代によってその時々の人間が築き上げていくものだと思います。
「原則禁止」という発想は、「多様性」だけでなく、そうした「変化」すらも容認しない、という急進的な立場であるように感じます。
また、志村けんが『バカ殿様』で一時期を境に女性の裸を出すことをやめると決断したように、「時代性」を鑑みて、良識的な立場から方針を変えるということもあります。
志村けんは、そういうバランス感覚を持ち合わせているからこそ、幅広い世代に支持されているのでしょうが、要はそうした才人の「感覚」にある程度は任せてもよいのではないか、とも思います。
表現者はそういう「感覚」を研ぎ澄ませている方が多いでしょうし、そういう「変化」が徐々に人々の意識を変えていく(あるいは時代が変わっていく)ものなのではないでしょうか。
こうした観点においても、やはりタバコと「セクハラ」は異なります。
タバコが悪者扱いされたのは、健康被害が喧伝されたからでしょう。
それも「吸っている本人」だけではなく、傍にいる人間も副流煙の被害を受ける、という事実が明らかになったからであり、「文化」の変遷以前に「健康被害、まったなし」という切迫した状況が浮上したのだと思います。
今のような分煙体制が確立する遙か以前でも、食事や飲み会の席で「吸ってもいいですか?」と断るのは当たり前のマナーになっていました。
そういう意味では、「多数派に圧殺されてきた少数派」という構図には納得しかねます。
吸ってもいないのに煙の巻き添えになる、という事実が判明してからというもの、喫煙者に気を遣う非喫煙者というのは、私はほとんど見たことがありません。
私も当初は、テレ朝女性記者を擁護する内容の投稿を書き込みましたが、『ライジング』『辻説法』『ゴー宣』を読んですっかり変わってしまいました。
己の未熟さを恥じるばかり。
やはり「恥」を感じるのは、己の精進のために必要なのかなと思います。
「恥」は過去のもの、未来に向かって「意識」を変えていけばよいではないか、と。
そうやって「本人が変わる」可能性すら奪ってしまうから、「原則禁止」には全く賛成できません。