もくれんさんのブログ、「情」の考察に反応してしまいました。 「情」というと、客観的=現実的とみなす人たちの耳には、ほとんど「嘘」の同義語のように聞こえるかと思います。 しかし、よく考えてみれば、「情」即ち心の動きなくして、「本当」即ち現実世界なんてものは、存在しようもありませんよね・・・。 たとえば、客観を信奉する人たちにとっては御神体のごとき「物理法則」。これだって、発見したいという主観的な願いが人間の側になければ、一個も発見されなかったわけで。 小林秀雄がこんな面白いことを言っています。 「誰にとっても、生きるとは、物事を正確に知ることではないだろう。そんな格別な事を行うより先に、物事が生きられるという極く普通な事が行われているだろう。そして極く普通の意味で、見たり、感じたりしている、私達の直接経験の世界に現れて来る物は、皆私達の喜怒哀楽の情に染められていて、其処には、無色の物が這入って来る余地などないであろう。それは、悲しいとか楽しいとか、まるで人間の表情をしているような物にしか出会えぬ世界だ、と言っても過言ではあるまい。「本居宣長」) 世界は無色だ、情は嘘だ、というその主張にも、色や情は満ち満ちていていて、ただそれは、あんまり魅力的な色や情ではないということなのでしょう。
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もくれんさんのブログ、「情」の考察に反応してしまいました。
「情」というと、客観的=現実的とみなす人たちの耳には、ほとんど「嘘」の同義語のように聞こえるかと思います。
しかし、よく考えてみれば、「情」即ち心の動きなくして、「本当」即ち現実世界なんてものは、存在しようもありませんよね・・・。
たとえば、客観を信奉する人たちにとっては御神体のごとき「物理法則」。これだって、発見したいという主観的な願いが人間の側になければ、一個も発見されなかったわけで。
小林秀雄がこんな面白いことを言っています。
「誰にとっても、生きるとは、物事を正確に知ることではないだろう。そんな格別な事を行うより先に、物事が生きられるという極く普通な事が行われているだろう。そして極く普通の意味で、見たり、感じたりしている、私達の直接経験の世界に現れて来る物は、皆私達の喜怒哀楽の情に染められていて、其処には、無色の物が這入って来る余地などないであろう。それは、悲しいとか楽しいとか、まるで人間の表情をしているような物にしか出会えぬ世界だ、と言っても過言ではあるまい。「本居宣長」)
世界は無色だ、情は嘘だ、というその主張にも、色や情は満ち満ちていていて、ただそれは、あんまり魅力的な色や情ではないということなのでしょう。