ゴーマニズム宣言・第263回「相撲、表現規制、原発、対米関係…保守も意見は分かれる」 相撲のことについては、もう何度も記したし(今回も)、しょくしゃう気味になりましたので、「世間」とか「社交」のことについて。 正直言って、私は人づきあひは下手なんてレベルではないです。いつも、「ゐばってゐる」とか「自慢話ばかり」みたいな言はれ方をされるのですが、何が何だかさっぱりです。なぜ、「この部分はかうだから、このやうに改善した方が良い」とか、口や文章でつたへないのだらうか。それだけ人間の感情は、(先のインターネットの自動検閲の件とも重なりますが)、冷静な判断力を奪はせ、理性と論理にもとづく結論を阻碍するのだらうか、と。 かくいふ私も、かなり感情家ですが。医療機関にかよってゐるのも、(かなり昔に)姉に言はれて、己を外側からチェックしてもらひなさいといふアドヴァイスをきいたからで、言はれた当時はショックでしたから(今は、さういふのは偏見だ、と感じます。自分は何も悪いことはしてはゐないのだから。一般的に見て、悪いことをしないやうに、さういふところへ通ふのだから)。 私たちは、自分のことが完全に分かるほど、萬能なのでせうか?むしろ、己の敵は、内なるところにこそ、潜んではゐますまいか?「とかトントン」といふ音も、そのやうなものではないか、と。 個人的な話はともかく、私はかういふ表記をしてゐますが、実は山本有三の作品が大好きです。けれども「いかに生くべきか」を示したからだけではないです。そこには人間の感情や対立、矛盾もかなり描かれてゐるからです。 とりわけ、有名なのが「路傍の石」ですが、実は2ヴァージョンあって、朝日新聞に連載された最初のものでは吾一は新雑誌をつくるのに次野先生と対立してしまひ、一人夜明けの工場で活字を拾ふ、といふ場面で「第一部完」となってゐます。「いかに生くべきかも重要だけれども、自分らのやうなものには今をどう生きるかも大切だ」みたいな吾一の述懐を語らせて。 吾一と次野のやうに、親密な心の結びつきで結ばれた師弟においても、かくの如き対立が起こるのだから、人は個人それぞれ異なってしまって、仕方ないのだと思ふのです。そんな中で、では人類、世界普遍の共通の真理みたいなものを見いだしてゆくわけなのだから、哲学が「愛知」といふ名前だったとしても、それがむづかしく、難解で、かつ爽快ではないものになるのはやむを得ないのではありますまいか。「路傍の石」自体が、鉄橋で命をかける場面を有する、命がけのもの語りであり、丁稚奉公からの逃亡やおとむらひ稼ぎといふ世の底辺をも描写したものなのだから、そこから何かをよみとるのは真剣勝負でないと讀者の側もいけないのでは、と思ひます(笹さんとのヴィデオの内容も踏まへて記してみました)。 ぎりぎりですが、こんな感じです。東京新聞の記事については讀解を要するので、また改めて。 それでは次回配信を期待します。
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ゴーマニズム宣言・第263回「相撲、表現規制、原発、対米関係…保守も意見は分かれる」
相撲のことについては、もう何度も記したし(今回も)、しょくしゃう気味になりましたので、「世間」とか「社交」のことについて。
正直言って、私は人づきあひは下手なんてレベルではないです。いつも、「ゐばってゐる」とか「自慢話ばかり」みたいな言はれ方をされるのですが、何が何だかさっぱりです。なぜ、「この部分はかうだから、このやうに改善した方が良い」とか、口や文章でつたへないのだらうか。それだけ人間の感情は、(先のインターネットの自動検閲の件とも重なりますが)、冷静な判断力を奪はせ、理性と論理にもとづく結論を阻碍するのだらうか、と。
かくいふ私も、かなり感情家ですが。医療機関にかよってゐるのも、(かなり昔に)姉に言はれて、己を外側からチェックしてもらひなさいといふアドヴァイスをきいたからで、言はれた当時はショックでしたから(今は、さういふのは偏見だ、と感じます。自分は何も悪いことはしてはゐないのだから。一般的に見て、悪いことをしないやうに、さういふところへ通ふのだから)。
私たちは、自分のことが完全に分かるほど、萬能なのでせうか?むしろ、己の敵は、内なるところにこそ、潜んではゐますまいか?「とかトントン」といふ音も、そのやうなものではないか、と。
個人的な話はともかく、私はかういふ表記をしてゐますが、実は山本有三の作品が大好きです。けれども「いかに生くべきか」を示したからだけではないです。そこには人間の感情や対立、矛盾もかなり描かれてゐるからです。
とりわけ、有名なのが「路傍の石」ですが、実は2ヴァージョンあって、朝日新聞に連載された最初のものでは吾一は新雑誌をつくるのに次野先生と対立してしまひ、一人夜明けの工場で活字を拾ふ、といふ場面で「第一部完」となってゐます。「いかに生くべきかも重要だけれども、自分らのやうなものには今をどう生きるかも大切だ」みたいな吾一の述懐を語らせて。
吾一と次野のやうに、親密な心の結びつきで結ばれた師弟においても、かくの如き対立が起こるのだから、人は個人それぞれ異なってしまって、仕方ないのだと思ふのです。そんな中で、では人類、世界普遍の共通の真理みたいなものを見いだしてゆくわけなのだから、哲学が「愛知」といふ名前だったとしても、それがむづかしく、難解で、かつ爽快ではないものになるのはやむを得ないのではありますまいか。「路傍の石」自体が、鉄橋で命をかける場面を有する、命がけのもの語りであり、丁稚奉公からの逃亡やおとむらひ稼ぎといふ世の底辺をも描写したものなのだから、そこから何かをよみとるのは真剣勝負でないと讀者の側もいけないのでは、と思ひます(笹さんとのヴィデオの内容も踏まへて記してみました)。
ぎりぎりですが、こんな感じです。東京新聞の記事については讀解を要するので、また改めて。
それでは次回配信を期待します。