女性を徴兵すべきか否かという議論が出ていますが、私は反対です。 仮に徴兵するにしても、基地や拠点で内勤にすべきであり、戦地に送るべきではありません。 理由は以前に笹師範がブログで「自衛隊のレスキュー訓練を取材して感じたこと」として書いておられました。 体力的に女性が男性には全く追いつけない上に、女性は男性の前で裸になることは出来ません。 もっと言えば、女性はそこらで排泄をすることも簡単ではありません。 これが何を意味するか。 軍隊で重要となる「規律を持った行動を隊長が統率する」ということが非常に困難になるのです。 即座の対応が必要である時に、いちいち「女性が○名いるから」とか考えている余裕などないでしょう。 私は警備員の仕事をしているので実感するのですが、男女混在で「外で身体を動かす仕事」に当たる際に、あらかじめ必ず上で述べた体力・着替え・トイレについて考慮しておく必要があります。 これは小林先生が述べておられるように、男性側が配慮するべき事案だと思います。 さらに、戦地に長期間滞在する場合は、月の障りも大きな問題になります。 こうした身体の違いを無視して「男女平等だから」という観点で「徴兵すべき」という意見には、全く納得できません。 「守るべきもの」が、そもそも何なのか、きちんと見据えておられるのでしょうか。 そこまでして「男女平等」を押し通す必要があるのでしょうか。 また、「そもそも軍事基地に待機する徴兵制ではなく、地域で男女年齢関係なく訓練を行う方式をとるべき」とありますが、これは「国防のプロ」である軍人という存在を蔑ろにする考え方ではないでしょうか。 また、「内地の保安のプロ」である警察の存在も蔑ろにしていないでしょうか。 敵国からの攻撃、テロ、犯罪に備えて「自分の身は自分で守れ」ということであるならば、軍人および警察と民間人の境目がなくなってしまいます。 簡単に「訓練」と言いますが、ではアメリカのように拳銃所持を容認せよ、ということでしょうか。 そうではなく、内外からの「秩序破壊」に際しては、軍隊ないし警察に暴力装置としての権限を与え、それをあくまでシビリアンコントロールをする、というのが現在の国家としての理想型であるわけでしょう。 だからこそ、民間人は安心して日常生活を営むことができるわけです。 個人的に護身術を訓練しておく、というのはもちろん自由ですが、「義務」にしてしまっては民主主義国家としての体を成さなくなります。 「訓練義務」を課された国民は、国防についてもの申すことができるのでしょうか。 それが認められれば、出来する状態は「混乱」「カオス」です。 『リヴァイアサン』の「万人闘争」に近い状態になるかもしれません。 民主制として「国民の代表に委任する」「代表が無能であるとき・暴走した時には、議論をして考える」という原則を無視しているように思います。 小林先生は、男尊女卑には反対だが男女平等ではない、とブログで書かれていましたよね。 私も全く同じ感覚です。 この感覚は、国によって異なるのかもしれません。 でも、日本人の保守としては、「男性が女性を守る(目下に見る、ということではなく)」というスタンスこそが、日本の長い歴史において伝承されてきたものではないか、と考えます。
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女性を徴兵すべきか否かという議論が出ていますが、私は反対です。
仮に徴兵するにしても、基地や拠点で内勤にすべきであり、戦地に送るべきではありません。
理由は以前に笹師範がブログで「自衛隊のレスキュー訓練を取材して感じたこと」として書いておられました。
体力的に女性が男性には全く追いつけない上に、女性は男性の前で裸になることは出来ません。
もっと言えば、女性はそこらで排泄をすることも簡単ではありません。
これが何を意味するか。
軍隊で重要となる「規律を持った行動を隊長が統率する」ということが非常に困難になるのです。
即座の対応が必要である時に、いちいち「女性が○名いるから」とか考えている余裕などないでしょう。
私は警備員の仕事をしているので実感するのですが、男女混在で「外で身体を動かす仕事」に当たる際に、あらかじめ必ず上で述べた体力・着替え・トイレについて考慮しておく必要があります。
これは小林先生が述べておられるように、男性側が配慮するべき事案だと思います。
さらに、戦地に長期間滞在する場合は、月の障りも大きな問題になります。
こうした身体の違いを無視して「男女平等だから」という観点で「徴兵すべき」という意見には、全く納得できません。
「守るべきもの」が、そもそも何なのか、きちんと見据えておられるのでしょうか。
そこまでして「男女平等」を押し通す必要があるのでしょうか。
また、「そもそも軍事基地に待機する徴兵制ではなく、地域で男女年齢関係なく訓練を行う方式をとるべき」とありますが、これは「国防のプロ」である軍人という存在を蔑ろにする考え方ではないでしょうか。
また、「内地の保安のプロ」である警察の存在も蔑ろにしていないでしょうか。
敵国からの攻撃、テロ、犯罪に備えて「自分の身は自分で守れ」ということであるならば、軍人および警察と民間人の境目がなくなってしまいます。
簡単に「訓練」と言いますが、ではアメリカのように拳銃所持を容認せよ、ということでしょうか。
そうではなく、内外からの「秩序破壊」に際しては、軍隊ないし警察に暴力装置としての権限を与え、それをあくまでシビリアンコントロールをする、というのが現在の国家としての理想型であるわけでしょう。
だからこそ、民間人は安心して日常生活を営むことができるわけです。
個人的に護身術を訓練しておく、というのはもちろん自由ですが、「義務」にしてしまっては民主主義国家としての体を成さなくなります。
「訓練義務」を課された国民は、国防についてもの申すことができるのでしょうか。
それが認められれば、出来する状態は「混乱」「カオス」です。
『リヴァイアサン』の「万人闘争」に近い状態になるかもしれません。
民主制として「国民の代表に委任する」「代表が無能であるとき・暴走した時には、議論をして考える」という原則を無視しているように思います。
小林先生は、男尊女卑には反対だが男女平等ではない、とブログで書かれていましたよね。
私も全く同じ感覚です。
この感覚は、国によって異なるのかもしれません。
でも、日本人の保守としては、「男性が女性を守る(目下に見る、ということではなく)」というスタンスこそが、日本の長い歴史において伝承されてきたものではないか、と考えます。