リボンの騎士 のコメント

配信ありがとうございます。ゴー宣拝読しました。

お正月休み中に、アンジェイ・ワイダの【カティンの森】(2007年)というポーランド映画を観たのですが、生涯忘れられない映画との出会いになりました。
1939年、独ソによってポーランドは分割され、ポーランド人将校らが捕虜となりますが、1940年にソ連によってその捕虜のうち約15000人が虐殺された「カティンの森事件」について描かれた作品で、捕虜となった将校、彼らの帰りを待ち続ける家族、ソ連の衛星国となった戦後という3つの軸からできています。
最後の20分はあまりに凄まじいリアリズムの、血も凍るような戦慄で固まってしまうほど残虐なシーンがこれでもかというくらい容赦なく映し出されるのですが、そのショッキングなシークエンスとは別の意味で恐ろしかったのは、戦争が終わり、ソ連の衛星国という形ばかりの独立国家となってからのポーランドの惨状でした。
カティンの虐殺を行ったのはソ連であるにもかかわらず、そしてそれを誰ひとり知らない人はいないにもかかわらず、犯行はナチスドイツがおこなったとソ連がしたことで、ポーランド国民は「カティンの虐殺はナチスドイツがおこなったものである」という踏み絵を政府から強いられます。それができなければ闇に葬られるか、徹底的な思想教育が行われる。家族を殺した真犯人が“名目上の“同志だとわかっているのに、何もすることも、何を言うこともできない。その状態が1990年にゴルバチョフによってスターリンによる虐殺と認められるまで続きました。墓碑に“1940年”と刻めるようになったのもそのときからです(事件が起こったのが1940年だとすると必然的にソ連の犯行とわかるため、50年間それが認められなかった)。

この度のゴー宣にありました「国家を守れずに、言論の自由は守れない」、まさにそのものがそこにはありました。

たとえ戦争に負けたとしても、それですべてがなくなるわけではない。物理的には国は残る。人も残る。でも侵略された状態で主権がなければ、魂の抜かれた形ばかりのものがそこにただあるだけとなる。「侵略されたら殺される」とか「ただ逃げる」で、「オ・シ・マ・イ」にはならない。自分が死んでも、どこかに逃げおおせたとしても、そのあとに無残な続きがあるということを想像してみてほしい。そしてそれを、誰に押し付け、背負わせてしまうのかということも。

そうならないために、大人は責任を持って考えておかなければならないのだと、ゴー宣を読んであらためて思ったことであります。

No.46 83ヶ月前

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