ゴー宣の、 >最近は、行間の全てを文字で埋め尽くさないと分からないバカが多い。 近ごろ小林秀雄の「本居宣長」読んでおり、それによると、宣長に限らず江戸時代の優れた学者は皆、そういう人たちのまさに対極にいたようです。 彼らの読書の目的は、書かれている事柄を正確に理解する、ということですらなかったようです。 たとえば論語なら、孔子から思想のパッケージを受け取るのではなくて、孔子という人間と、できる限り直に接しようとする、できるだけ深く、生身の人間同士の付き合いができるようにする、それこそが読書であり、学問だ、という彼らの確信が、「本居宣長」では引用文でも小林秀雄の地の文でも、繰り返し紹介され語られています。 眼光紙背に徹して、その向こうの「人間」に会いにゆく、と。 そういえば、いつか百田尚樹が「漢文の授業ヤメロ」と言っていましたね。「あれは中国人の思想だ、日本人の子供に植え付けてはならん」と。 眼光字面に反射して、なんやわからん「イデオロギー」として固まる、と。 同じ漢文に対して、両者の読み方には目の眩むような落差があります。 文章の素人ではない、どころかベストセラー作家がこうなら、同じような人はやはり、今は大量増殖しているのでしょうかね・・・。
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(ID:4494830)
ゴー宣の、
>最近は、行間の全てを文字で埋め尽くさないと分からないバカが多い。
近ごろ小林秀雄の「本居宣長」読んでおり、それによると、宣長に限らず江戸時代の優れた学者は皆、そういう人たちのまさに対極にいたようです。
彼らの読書の目的は、書かれている事柄を正確に理解する、ということですらなかったようです。
たとえば論語なら、孔子から思想のパッケージを受け取るのではなくて、孔子という人間と、できる限り直に接しようとする、できるだけ深く、生身の人間同士の付き合いができるようにする、それこそが読書であり、学問だ、という彼らの確信が、「本居宣長」では引用文でも小林秀雄の地の文でも、繰り返し紹介され語られています。
眼光紙背に徹して、その向こうの「人間」に会いにゆく、と。
そういえば、いつか百田尚樹が「漢文の授業ヤメロ」と言っていましたね。「あれは中国人の思想だ、日本人の子供に植え付けてはならん」と。
眼光字面に反射して、なんやわからん「イデオロギー」として固まる、と。
同じ漢文に対して、両者の読み方には目の眩むような落差があります。
文章の素人ではない、どころかベストセラー作家がこうなら、同じような人はやはり、今は大量増殖しているのでしょうかね・・・。