希蝶 のコメント

第260回「無知に媚びる民主主義という病い」

 西部さんの話でも思ったのですが、社会に対する責任を考へると、無意味に生かされる、といふことは拷問のやうに感じる人がゐてもをかしくないのだ、といふことです。
 私は、キリスト教とかで、人は主が生きてゐてもいい、と思ふまで生きなければならない、とかいふ考へに贊同してしまふので、安楽死に必ずしも肯定的にはなれないのですが。
 それでも、「火の鳥」生命篇で、ヒロインの祖母がからだ全体を機械化してまで生き延びようとする姿を見てゐると、「ロボットとかはりがないではないの」と感じます。個人的な話をまた記すのですが、母方の祖母も母よりも長寿で、最後には意識をなくしてしまひました。とても活動的な人だったのですが。自身がこの世を去ってしまった、といふ感覚もなくなってゐたのでせう。自分ももっと老いたら、かうなってしまふのか、と。
 それでも、肉親には可能な限り長生きして欲しい、とは願ひます。西部さんの投身自殺を聞いても、これだけショックだったのですから。

 昔、「アンネの日記」を授業で習った際に、アンネの最後の一言が弱すぎる、なくなった肉親の分まで頑張って、もっと長生きするんだ、といふ気迫があって欲しかった、なんていふ感想を漏らしたことがあるのですが、アンネ・フランクにしてみれば、収容所で肉親の殆どをなくして、自分一人だけで生きられるのか、といふ不安はあっても仕方がないのだ、と今は思ひます。
 ウーマンなんちゃらとかいふ人って、さういふ葛藤があって、自身の萬歳を作成されるのかな、とか思ひました。この前述べた、「サハラに舞う羽根」(タイトルを間違へてゐました)についても。
 竹宮惠子先生の「ファラオの墓」などもおよみになってはいかが、とも思ひました。

 逃げる、といふ行為は、三方ヶ原の戦ひで、家康が脱糞してまで命からがらするほどの切羽詰まった行為で、次に戦ふために命をつなぐ、といふ意味あひや、もっと言へばそんなことも考へられずに、死んでしまったら、何もできないから、まづは明日のことも何もできなくなるから、とりあへずは恥をかいてでも、といふやうなことで、「五十歩百歩」といふ言葉があるやうに、逃げたらおしまひ、といふニュアンスもあると思ひます。それでも、緊急のために、犠牲を少なくするために退路を確保するといふことは重要ですが、まづは戦ったものしか口にしてはならない言葉だらうと。そして、次に戦はないと、その退散は無価値なものになるだらう、と。自分ができないのなら、誰かに託すとか。古代支那の荊軻とかの例のやうに。

No.205 83ヶ月前

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