希蝶 のコメント

調査報告。

 「書紀」垂仁天皇7年7月7日条。
1当麻邑(たぎまむら)の当摩蹶速(たぎま の くゑはや)といふ人が、力自慢をしてゐて、始終大衆に、「世の中には自分よりも強いやつはゐるのか、なんとかして、強力なやつに出会って、生死を問はず、ただひたすらに力比べをしたい」と言ってゐて、実際に力を示したりしたので、天皇は左右の群臣に確認したところ、「出雲国に野見宿禰といふ人がゐるから、くゑはやと対峙させてみよう」となり、長尾市といふ人を遣はして、呼び出した。
2 そして「すまひ」して、互ひに足をあげてふみあった(キックボクシングをした)
3 (宿禰は)蹶速の脇骨は折られ、腰を踏みくだかれて、殺した。
4 (天皇は)蹶速の土地を奪って、野見宿禰にあたへた。ゆゑに、その村には腰折田(こしをりだ)といふ名称の土地がある。
5. 宿禰はそのまま朝廷にとどまって、天皇に仕へた。

といふ物語で、これが7月7日の相撲の節会(せちゑ)の起源だといはれてゐます。

 ちなみに、火の鳥ヤマト篇では、埴輪の起源が描かれてゐますが、実は史実だと、垂仁28年に天皇の母親の弟(伯父さん)がなくなって、殉死で人々を埋めたら、死にきれなくて、泣きつづけた、といふ出したといふ事件があり、気の毒に思った天皇は、殉死を禁止した、その後、32年に皇后が薨去したので、野見宿禰が出雲国の土師部(はじべ)百人をよんで、人や馬に似た形のものを作らせ、それを天皇が埴輪と名付けた、といふ話があります。
 野見宿禰は、立派な人だと思ひます。

 閑話休題。つまり、このくゑはやの行為には、白鵬の傲慢さに通ずるものがあるのではないか、と思ひます。つまり、世の中は広く、日々研鑽してゆくものだから、上には上がゐる、といふ気持ちで努力すべきだった、と。
 私は日馬富士の潔さも評価しますが、貴ノ岩の「告げ口は良くないと思った」といふ言葉を聞いて、かなり意見がかはりました。
 それまでは、俗にいふ、喧嘩して仲良くなる、とか友情が芽生える、みたいに解釈してゐました。獅子の子落としみたいに。
 この道場も、何となくそんな場に見えてゐたんです。「覚悟」とか、「分をわきまへる」とか。
 貴ノ岩の発言を立派だと思ふと同時に、「これは確実にいぢめだ」と、経験でも分かりました。「おまへ、親や先生にちくったな」とか、言はれたりしませんでしたか?

 何だかこのコメント欄の前のはうで、このことに疑義を持ってゐるかたがゐましたので、わかりやすく書いてみました。

No.136 83ヶ月前

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