csusukom のコメント

キュリー夫人の不倫スキャンダル

先ほど(2017年9月30日14:00-)IWJ_AICHI1 「山尾志桜里氏応援集会生中継」を拝見して感激したので、予定外ですがまず手短な感想から始めます。小林よしのり氏による「衆議院解散総選挙第3弾」に期待できることがわかって大いにうれしくなりました。山尾志桜里氏の気迫と内容のこもった挨拶からは、政治家としての見識と能力が十分伝わってきて、今後の活躍を確信しました。「希望の党」をめぐってわけのわからないもやもやに悩まされていましたが、両氏の挨拶から元気が出てきました。今後の大いなる健闘を祈ります。

さて本題です。世田谷区在住の物理学者で4年前に大学を定年退職しました。
山尾氏を志ある政治家として応援したいと思っていますが、最近の山尾氏に関する報道騒ぎを見ていて、しきりに、キュリー夫人をめぐる不倫スキャンダルを思い出しています。100年程前、フランスの大衆誌がキュリー夫人を不倫疑惑をタネに激しくバッシングして生死の境まで追いつめました。山尾議員に対する報道は山場を越えたと思われますが、落ち着くまでにはまだ長い時間がかかるでしょう。大衆によるバッシングの恐ろしさとともに、それでも、本人が信念を曲げずに行動し続ければ、後日の人々はすべてを忘れてしまう、という好例としてキュリー夫人の話をお知らせします。なお、以下の内容は学生時代に読んだ「キュリー夫人の素顔」(ロバート・リード著、共立出版)を読み直して正確を期しています。

キュリー夫人が不倫スキャンダルに見舞われたのは1911年の11月、夫のピエール・キュリーを失ってから5年目で43歳の未亡人、14歳と6歳の子持ちで、すでに学者としてはソルボンヌ大学教授として国際的名声も確立していました。さらに、2つ目のノーベル賞授与が決定された時期とも重なり、まさに栄光の絶頂期にさしかかったときです。パリの大衆新聞が突然キュリー夫人の不倫疑惑を書き立て、それをきっかけに、ノーベル賞もお構いなしの、常軌を逸した壮絶なバッシングが始まります。不倫相手とされたのは5歳年下のポール・ランジュバン、故ピエール・キュリーの一番弟子で妻と幼い子供4人の家庭もちです。今では世界中で名を知られた超有名な物理学者ですが、当時、長らく家庭不和と経済的問題に悩まされて妻とは別居中、研究中断の危機にありました。キュリー夫人は亡き夫の見込んだ超優秀な弟子ということで、彼の未来を案じて家庭の悩みに親身に相談にのりますが、そのうちに、いつしか周りの学者仲間が気付く程度に2人は親しくなってゆきます。ついに、ランジュバンが研究室のそばに賃貸していた小さなアパートに、たまに一人で訪れるキュリー夫人の姿がアパートの住民に目撃されるようになります。さらに、キュリー夫人のランジュバン宛の手紙がランジュバンの妻によって盗み出されて新聞社の手に渡ることで、スキャンダル誌が勢いづきます。

記事曰く「パリにやってきて科学で一山当てた外国の貧乏女が、フランスの善良な科学者の家庭を破壊した」、「外国出身の不道徳女のために、フランスの善良な家庭が壊されて家族が涙に暮れている」、さらには「ピエールが死んだのは、不倫を知って悲観して自殺したのでは」といった根拠のないうわさまで撒き散らす有様です。赤新聞に煽られた群集がキュリー夫人の自宅前に群がり、罵声が部屋にいる夫人の耳にも届くようになります。「外国の女は出てゆけ、亭主泥棒め。」 壁に石を投げるものもいたといいます。

国際的な名声が確立していたキュリー夫人にそこまで激しいバッシングが起こった背景には、ポーランドというヨーロッパの片田舎から出てきた貧乏女子学生出身のキュリーさんに対する、パリの人々の偏見がありました。フランスでは政治家の不倫など誰も問題にしない、という話がありましたが、それは現在のことです。100年前には上流階級以外の不倫は問題にされたし、その上、婦人参政権がない時代です。男女同等の意識は程遠く、女性に優れた科学的能力があるはずがないと庶民は強く信じていました。外国からやってきて学問で成功した女性に対する疑いや歪んだ気持ちと拒絶感が、庶民だけでなく権威主義的なフランス科学アカデミーにも色濃くありました。キュリー夫人の名声が巨大だった分だけ、鬱屈した人々の隠れた攻撃意欲もまた大きかったのです。人々の意識の底に潜むそんなヘドロを、スキャンダル誌が煽って掻き立てました。

群衆が集まった自宅から、親しい友人たちがキュリー夫人を助け出して大学の自宅宿舎に引き取って匿います。子供たちはそれぞれ別の友人に引き取られることになり、こうして家族はあっという間に離散してしまいます。 

2度目のノーベル賞授与の通知ガ届いてから授与式までの1ヶ月半が、まさしく上に記した不倫疑惑によるバッシングが始まって狂乱の域に達する期間に完全に重なります。自宅から追い出されて家族離散のどん底状態にあったキュリー夫人ですが、それでも気力を振り絞ってストックホルムに出かけて、無事ノーベル賞の受賞講演を済ませます。でもそれが肉体と精神の限界でした。講演を終えてパリに戻った直後に倒れて担架で病院に担ぎこまれます。このころになると、スキャンダル報道自体は、大衆が飽きたため、ピークを過ぎるのですが、キュリー夫人が受けた精神的・肉体的ダメージが蓄積してこのころピークに達し、それから先、心身の深刻な不調に長期間悩まされます。担ぎ込まれた病院ではうつ症状と重症の慢性的尿道炎と診断されて即入院。数日間絶対安静の重体が続き、その後幸い短期的に回復へむかいますが、翌1912年3月には再度入院して腎臓手術、その後も重い鬱状態が続き、さらに6月には病気が再発して入院します。まさに心身ともにボロボロでした。病院の入退院を繰り返すそんなどん底のこの期間、パリ近くに別名で家を借りて、キュリー夫人の名を隠して、ごく少数の友人以外には秘密にして暮らします。人々に気付かれるのを恐れる犯罪者のように、名前を隠して隠れ住んだのです。病院宛ての娘からの手紙にすら「キュリー夫人」と書くことを許さず、別名を書かせました。キュリー夫人と名乗ることで攻撃されるのではないか、という恐れとともに、キュリー家の名に泥を塗ったという自責の念から、自分にはもはやキュリー夫人を名乗る資格がないのではないか、と考えたのでしょう。キュリー夫人として生きてゆく自信を失ったのです。

キュリー夫人のような不撓不屈の意思と強烈な自尊心を持った人間には、この半年あまりの出来事は、想像を絶する耐え難い屈辱だったはずです。たとえ自分のしたことになんら恥じる点がなくても、「キュリー家の名に泥を塗ってしまった」という自責の念は強烈だったと思われます。後日、成人した娘に対して「当時自殺を考えはじめていた」と打ち明けていることから、よほど精神的に打ちのめされたのだと想像できます。

このどん底の期間中、ポーランドの実家の親族がやってきて、傷ついたキュリー夫人をポーランドに連れ帰ろうとします。パリの知人の中にもそれを勧める人が沢山いました。さらに、ポーランドの科学界はふさわしい地位を用意し、呼び戻そうと使節団を差し向けます。しかし、どんなに弱っていてもキュリー夫人は頑として言うことを聞きませんでした。夫を含めて自分を科学者にしたすべてのものがこのパリにある。だからどんなに大変でも、ここに踏みとどまって、たとえどんなに恥にまみれたとしても、パリに踏みとどまって科学者として天命を全うしよう、と決心したのです。1912年8月になると、やっと最低限の元気が戻って入退院を繰り返すことがなくなり、イギリス人の友人が用意してくれたイギリスの安全な隠れ家に移って、誰にも知られずに安心して2ヶ月ほどすごします。そこでさらに元気を回復し、10月にパリに戻ってきます。

久しぶりにパリの自宅に戻り、子供を呼び寄せて家庭を再構築し、研究も再開して後半生のスタートを切ります。群集に罵声を浴びせられ、石を投げられて家から逃げ出して以来、1年たらずが経っていました。さらに翌年の春には、再びやっとキュリー夫人を名乗り始めます。1年半かかって、ようやく学者として、キュリー夫人として生きる自信と気力を取り戻したのです。

以上がバッシング騒動の顛末です。当時から100年あまり経った現在、キュリー夫人を「不倫疑惑の学者」と考える人は一人もいません。大衆のバッシング好きを大衆誌が金儲けに変えるために、キュリー夫人を餌食にしたのです。しかし、その騒ぎは、あのキュリー夫人でさえ押しつぶしたかも知れない程危険なものでした。このキュリー夫人の一件から得るべき一般的な教訓は何でしょうか? 

バッシングを乗り越えて何かを成し遂げるために必要なものの第一は、まず本人のくじけない志と能力であり、第二それを援助するが理解者の協力だ、ということだと思います。 第一の本人の志と能力は当たり前なので、第二の理解者の協力について記します。組織や権威には期待できず、代わりに、志を共有する独立した個人が重要です。キュリー夫人の例で、自宅からキュリー夫人を助け出して大学の自宅宿舎に匿ったのはエミール・ボレル(世界的数学者、ソルボンヌ大学教授)とその妻のマルグリット(大学の理学部長ジャン・ペランの娘)です。その際、キュリー夫人の勤め先のソルボンヌ大学や政府の教育相が窮地を救う方向で働いたかというと、飛んでもありません。時のフランス教育相はボレルに対して、キュリー夫人を庇うなら大学を罷免すると脅しており、スキャンダルのとばっちりを恐れて迫害側に加担しています。また、理学部長の父は娘に、匿う場所に大学の宿舎を使うなと迫ります。ボレル夫妻はそれらの脅しにひるまず夫人を守り通しますが、そこには「守るべきは何か」を個人の責任で判断した上の覚悟が感じられます。それに比べて、組織や権威の一員は、自己の安定と保身だけが関心事で、正当さや公正さには無関心です。また、キュリー夫人にイギリスの隠れ家を用意したのは、婦人参政権獲得運動で投獄された人々の釈放を申請する運動を行っていたイギリス人の女性物理学者で、キュリー夫人がかつて協力した友人です。 次に、2つ目のノーベル賞です。これは、実は窮地にあるキュリー夫人を救う意図で授与された、というのが定説です。賞の受賞理由は「ラジウムとポロニウムの発見」ですが、これは8年前の1つ目の受賞理由「放射能の発見」と重なります。実質的に一つの発見に賞を2つ出したと言えます。その理由として、キュリー夫人が保守的なフランスの科学アカデミー会員の一部に反感を持たれていること、さらに、不倫スキャンダルの火種がくすぶっていることから、フランスの大衆的反感や因習的な権威筋の嫌悪感によって、キュリー夫人がつぶされてしまうのではないかと、国際的な科学者仲間が危機感を強めていました。この科学者仲間が、2つ目を急いで授与することで、少しでも彼女を守ろう、と意図したという説があるのです。この真偽の程は明らかではありませんが、私の個人的な想像では、さらにもう一つ理由があります。一つ目の受賞は夫ピエール・キュリーとアンリ・ベクレルという男性2人との共同受賞でした。ところが、当時、女は男より論理的思考に劣る下等な存在で、科学的才能がある筈がない、というのが世の常識でした。そのためにキュリー夫人は絶えず、「実際には男性2人の業績なのだが、お情けで女性が名まえを付け加えてもらった」という、根拠のない言いがかりに悩まされていました。キュリー夫人の優秀さをよく知り、その言いがかりに一番憤っていたのは、ほかならぬ、キュリー夫人と業績を競い合っている、当時第1級の優秀な男性科学者たちでした。今度こそ、社会に対して誤解無しに、キュリー夫人の業績を認めさせるようと、彼らが、あえてキュリー夫人ただ一人に賞を授与するよう運動したと思うのです。そう考えて動いた科学者が誰かは分かっていませんし、極秘に保たなければ意味がないので、当の科学者たちが名乗り出るはずもありません。が、当時の世界的科学者は、そう行動しておかしくない人たちが大半です。

以上、長々と書いてしまいましたが、山尾議員、および山尾議員に協力しようとするすべての個人にエールを送ります。あなた方が頑張れば、その分日本が良くなる希望が増えます。

No.182 86ヶ月前

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