倉持さんのブログ記事「権力分立と道徳的中立性の黄昏」を読んで。 どのようにして権力の制御装置が解除されていったのか、具体的なステップが示されて腑に落ちるところ多く非常に勉強になりました。 読みながら思い出したのはローマ帝国の創成期で、アウグストゥスの権力掌握に至る道のりは、東アジア的な『皇帝』のそれとは異なり、すでに法治国家としての歴史が長いローマの法律・慣習のなかに埋め込まれた独裁阻止のための仕掛けをひとつひとつ解除して達せられた史実です。 もちろんかの歴史的名君の偉業と比べるべくもありませんが、日本の大衆には権力集中・独裁への警戒心が薄いことを利用して進められた権力分立の無効化には何か狡猾な意志を感じます。 違憲状態を解消するどころかそれに狎れきっていること、メディアが権力への迎合を隠しもしなくなったこと、中央官僚の施策に地方が抗う手段を持たないこと、政権による天皇への明白な侮辱も止められていないこと、自民党の変質など、一時は世論が盛り上がることはあってもすぐに風化して、しまいには「多少の問題はあれど仕方ない」といった言論人・学者による現状追認が支配的になっていく。 気付けばこれら一つ一つの事案がが相互に響き合って権力の集中(とそれに続く腐敗)が進行しているわけですね。 どうも根の深い社会的な持病のようにも思えて、日本型の立憲主義というものが果たして確立し得るのか心もとなく感じてしまいます。といってアメリカ型のような厳格な手続き重視もうまく日本に適合するとは思えず(そもそも統治概念の輸入は不可能か)、しばらくこの問題について頭を悩ませつつ倉持さんの次の記事を楽しみに待つことにします。
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倉持さんのブログ記事「権力分立と道徳的中立性の黄昏」を読んで。
どのようにして権力の制御装置が解除されていったのか、具体的なステップが示されて腑に落ちるところ多く非常に勉強になりました。
読みながら思い出したのはローマ帝国の創成期で、アウグストゥスの権力掌握に至る道のりは、東アジア的な『皇帝』のそれとは異なり、すでに法治国家としての歴史が長いローマの法律・慣習のなかに埋め込まれた独裁阻止のための仕掛けをひとつひとつ解除して達せられた史実です。
もちろんかの歴史的名君の偉業と比べるべくもありませんが、日本の大衆には権力集中・独裁への警戒心が薄いことを利用して進められた権力分立の無効化には何か狡猾な意志を感じます。
違憲状態を解消するどころかそれに狎れきっていること、メディアが権力への迎合を隠しもしなくなったこと、中央官僚の施策に地方が抗う手段を持たないこと、政権による天皇への明白な侮辱も止められていないこと、自民党の変質など、一時は世論が盛り上がることはあってもすぐに風化して、しまいには「多少の問題はあれど仕方ない」といった言論人・学者による現状追認が支配的になっていく。
気付けばこれら一つ一つの事案がが相互に響き合って権力の集中(とそれに続く腐敗)が進行しているわけですね。
どうも根の深い社会的な持病のようにも思えて、日本型の立憲主義というものが果たして確立し得るのか心もとなく感じてしまいます。といってアメリカ型のような厳格な手続き重視もうまく日本に適合するとは思えず(そもそも統治概念の輸入は不可能か)、しばらくこの問題について頭を悩ませつつ倉持さんの次の記事を楽しみに待つことにします。