現世利益的なものを神仏やスピリチュアルな何かに求めるというのは、それもまた人間の一面であり否定はしませんが、やはりうしろめたさがあると思うのです。波動だとかエネルギーだとか、結局はご利益が欲しいわけですよ。オウムなんかも神秘体験をウリにしていましたが、彼らは「特別な自分」だの神仏による救いだの、目に見えて人生が前向きに良くなる何かが欲しかったのでしょう。そうした、信仰の対価をあざとく得ようという根性が、敬虔で畏まった生き方と対極にあるような気がしてならないのです。 神なるものは、世の理不尽にじっと耐え、あるいはそれに抗おうとする人間の懸命さにこそ、顕れるものではないか。神々しいとか神がかりとかいう言葉が、この世界のどの局面で使われるか、真剣に考えてみるべきかと思います。
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小林よしのりチャンネル
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現世利益的なものを神仏やスピリチュアルな何かに求めるというのは、それもまた人間の一面であり否定はしませんが、やはりうしろめたさがあると思うのです。波動だとかエネルギーだとか、結局はご利益が欲しいわけですよ。オウムなんかも神秘体験をウリにしていましたが、彼らは「特別な自分」だの神仏による救いだの、目に見えて人生が前向きに良くなる何かが欲しかったのでしょう。そうした、信仰の対価をあざとく得ようという根性が、敬虔で畏まった生き方と対極にあるような気がしてならないのです。
神なるものは、世の理不尽にじっと耐え、あるいはそれに抗おうとする人間の懸命さにこそ、顕れるものではないか。神々しいとか神がかりとかいう言葉が、この世界のどの局面で使われるか、真剣に考えてみるべきかと思います。