道場、お疲れ様でした。 後半あたりを少しだけ見ましたが、やはり通しで見ないと分からないです。 スーパーの買物とか、おひるとか、色々と用事があるのです。 あと、コメントを入れようとすると、画面や内容に集中できないです。 SAPIOの漢文不要発言について、ちょっと記します。このコメントに投稿されているかたにとっては、常識かも知れませんが、一往、自分の理解しているところをまとめてみます。 何度も繰り返しますが、正直、呆れました。 かなり昔、どなたかが「朝生」で言っていたことだったと思いますが、漢文とは(所謂)中國語ではなく、実は日本文です。 「であるところの」とか、「かもしれない」「するつもりである」「しなければならない」など、現代日本語にはもって廻った表現がたくさんありますが、それらは外國語を日本語に直す際に作られたものであって、漢文の訓讀文も、「すべからく~すべし」など、漢語の翻譯の際に作成された獨特の言い廻しになります。 これは、岡田尊司さんの本で知ったことなのですが、ソニーの創業者の井深大(いぶか まさる)氏は、漢文は支那の言葉だから、白文でよむべしと、漢文のテストを白紙で提出して、落第したのだそうです。 それは一面の理ではあるのですが、岡田英弘さんの「この厄介な国、中国」(ワック株式会社)によると、「漢文」とは地域によって別々の言語を話している支那人のネットワークを文字でつなぐため、儒学の経典などを参考に、便宜上作られた人造語であって、詩人(安倍昭恵ではないですよ)のみが新たな表現を追加できるといった性質のものだそうです。 事実、かつての支那人は、士大夫(したいふ)、讀書人階級以外の人では文盲な人が大多数だったそうで、ゆゑに、「科挙」という文字判別テストが必要になってくるわけです。カトリック世界における、古代ギリシャ語とかラテン語とかと、よく似ているわけです。 高島俊男さんの本によると、明の初代皇帝、朱元璋とは、のちに自分で名乗った名前で、本名は、重八といって、伯父の子供からあわせて八番目だったからだそうです(昔の支那では、父方のいとこ同士は、兄弟とみなされたのだとか)。父親は朱五四というのですが、これは生まれた時の父母の年齡の和だそうです。所謂中國人だって、そんなに識字力・暗記力に優れているわけではないのです。 こうした事情で、科挙を採用しなかった日本では、訓よみ、書き下し文が必要だったわけで、音よみにも呉音・漢音・唐音の三種類が存在します。 だから、漢文をよんでいても、現実の支那、中華のことなどは分からないという主張は分からなくはないのですが、そこには周代を理想的な時代とみなし、現実をそこに近づけようという儒家の智慧や思想に満ち溢れているわけで、古代の歴史をあらわしていることにはかわりはないのです。 ちなみに、教育勅語も無論、漢文の訓讀文です。「一旦緩急アレバ」という表現ですが、文語の日本文では未然形接續で、已然形の「あれば」とはならないとおっしゃられたかたが、最近の「サンデーモーニグ」に出演されていました。そのことを指摘した親が、無禮者扱いされたのだとか。それは、先生がたが指摘されている点でも、非常に問題だった、と思います。 あと、ついでにいうと、中國國民黨も、かなのような文字をつくったのだけれども、流布しなかった、という話もつけたしておきます。
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道場、お疲れ様でした。
後半あたりを少しだけ見ましたが、やはり通しで見ないと分からないです。
スーパーの買物とか、おひるとか、色々と用事があるのです。
あと、コメントを入れようとすると、画面や内容に集中できないです。
SAPIOの漢文不要発言について、ちょっと記します。このコメントに投稿されているかたにとっては、常識かも知れませんが、一往、自分の理解しているところをまとめてみます。
何度も繰り返しますが、正直、呆れました。
かなり昔、どなたかが「朝生」で言っていたことだったと思いますが、漢文とは(所謂)中國語ではなく、実は日本文です。
「であるところの」とか、「かもしれない」「するつもりである」「しなければならない」など、現代日本語にはもって廻った表現がたくさんありますが、それらは外國語を日本語に直す際に作られたものであって、漢文の訓讀文も、「すべからく~すべし」など、漢語の翻譯の際に作成された獨特の言い廻しになります。
これは、岡田尊司さんの本で知ったことなのですが、ソニーの創業者の井深大(いぶか まさる)氏は、漢文は支那の言葉だから、白文でよむべしと、漢文のテストを白紙で提出して、落第したのだそうです。
それは一面の理ではあるのですが、岡田英弘さんの「この厄介な国、中国」(ワック株式会社)によると、「漢文」とは地域によって別々の言語を話している支那人のネットワークを文字でつなぐため、儒学の経典などを参考に、便宜上作られた人造語であって、詩人(安倍昭恵ではないですよ)のみが新たな表現を追加できるといった性質のものだそうです。
事実、かつての支那人は、士大夫(したいふ)、讀書人階級以外の人では文盲な人が大多数だったそうで、ゆゑに、「科挙」という文字判別テストが必要になってくるわけです。カトリック世界における、古代ギリシャ語とかラテン語とかと、よく似ているわけです。
高島俊男さんの本によると、明の初代皇帝、朱元璋とは、のちに自分で名乗った名前で、本名は、重八といって、伯父の子供からあわせて八番目だったからだそうです(昔の支那では、父方のいとこ同士は、兄弟とみなされたのだとか)。父親は朱五四というのですが、これは生まれた時の父母の年齡の和だそうです。所謂中國人だって、そんなに識字力・暗記力に優れているわけではないのです。
こうした事情で、科挙を採用しなかった日本では、訓よみ、書き下し文が必要だったわけで、音よみにも呉音・漢音・唐音の三種類が存在します。
だから、漢文をよんでいても、現実の支那、中華のことなどは分からないという主張は分からなくはないのですが、そこには周代を理想的な時代とみなし、現実をそこに近づけようという儒家の智慧や思想に満ち溢れているわけで、古代の歴史をあらわしていることにはかわりはないのです。
ちなみに、教育勅語も無論、漢文の訓讀文です。「一旦緩急アレバ」という表現ですが、文語の日本文では未然形接續で、已然形の「あれば」とはならないとおっしゃられたかたが、最近の「サンデーモーニグ」に出演されていました。そのことを指摘した親が、無禮者扱いされたのだとか。それは、先生がたが指摘されている点でも、非常に問題だった、と思います。
あと、ついでにいうと、中國國民黨も、かなのような文字をつくったのだけれども、流布しなかった、という話もつけたしておきます。