ライジングの感想です。 トンデモ見聞録・第24回 いつにもまして、木蘭さんの舌鋒が鋭かった回でした。 今回の「道場」でもアナクロ右翼ということばがありましたが、籠池一族はその典型例なのだと明示されています。中國・韓國を非難し、朝日新聞などのマスコミをたたき、産経新聞を讃美すれば、何か格が上がったものであるかの如く思ってしまうのは、形式を遵守することにとらわれ、情勢にあわせて、自分を変化させてゆく弾性をかいた、塑性(そせい)的な保守だと言えるのではないかと思います。ステロタイプの言論と言ってもよろしいかと。 安倍や稲田などはそれらに比べて、己の政治家としての地位を防衛しようとするしたたかさが感じられますが、結局のところ姑息なものでしかないように見えます。籠池氏らが證人喚問されて、パンドラの箱が開かれて真実が明るみに出ることをのぞみます。そして、國賊安倍らに天誅の下らんことを希望し、譲位問題など、本当に重大な課題が解決されることを期待します。 というか、もっとましな政治家や教育者は現れないものでしょうか? ゴーマニズム宣言 第216回「【日本民族】はいない」 ある意味、衝撃的なタイトルです。 「人種」と「民族」の違いについて、私たちは社会(地理・政治経済)などで学びますが、じつはかなり混同していて、血の純粋さが民族の誇りだという誤認をいだいているのではありますまいか。その誤謬は、天皇制の皇位継承における男系絶対主義にもあらわれており、穢多・非人などの差別論ともつながっているようにも見えます。 先日、書店で百田尚樹氏の本をたちよみしましたが、そこには、曾野綾子さんのおっしゃるように、南アフリカのホームランドによる人種隔離政策は、この國では仕方がないものではないかと、現状を見て思った、その根拠として、中國や旧ソ連の強制移動による人種消滅があるということが記されていました。私は、自國内に無理矢理國境を定めて、部族集團を閉ぢこめるような政策は正常なものではないと思うのですが、部族の傳統という視点から考えたら、そのことについてだけ言えば、一理あるのかも知れないと感じました。 ただし、それは南アフリカが一つの言語や文化でまとまっていないからこそ起こる悲劇であって、日本のように、各地から部族集團が移住してきたとしても、天皇という象徴でまとまってきた歴史を持つ國家においては、当てはまらないのではないかと感じました。 ヨーロッパの場合も、支那・東南アジア・イスラム世界の場合も、少数集團が存在して、國内を統合しなければならないというテーゼがある限り、その國や地域にあった特殊の事情がうまれてやむを得ないのだと思います。 同じ人間だから、と私たちはよく言いますが、それは同じであっても、じつは似ているということであって、似ているということは、違っていることでもあるのだと言えるのではないでしょうか。
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ライジングの感想です。
トンデモ見聞録・第24回
いつにもまして、木蘭さんの舌鋒が鋭かった回でした。
今回の「道場」でもアナクロ右翼ということばがありましたが、籠池一族はその典型例なのだと明示されています。中國・韓國を非難し、朝日新聞などのマスコミをたたき、産経新聞を讃美すれば、何か格が上がったものであるかの如く思ってしまうのは、形式を遵守することにとらわれ、情勢にあわせて、自分を変化させてゆく弾性をかいた、塑性(そせい)的な保守だと言えるのではないかと思います。ステロタイプの言論と言ってもよろしいかと。
安倍や稲田などはそれらに比べて、己の政治家としての地位を防衛しようとするしたたかさが感じられますが、結局のところ姑息なものでしかないように見えます。籠池氏らが證人喚問されて、パンドラの箱が開かれて真実が明るみに出ることをのぞみます。そして、國賊安倍らに天誅の下らんことを希望し、譲位問題など、本当に重大な課題が解決されることを期待します。
というか、もっとましな政治家や教育者は現れないものでしょうか?
ゴーマニズム宣言 第216回「【日本民族】はいない」
ある意味、衝撃的なタイトルです。
「人種」と「民族」の違いについて、私たちは社会(地理・政治経済)などで学びますが、じつはかなり混同していて、血の純粋さが民族の誇りだという誤認をいだいているのではありますまいか。その誤謬は、天皇制の皇位継承における男系絶対主義にもあらわれており、穢多・非人などの差別論ともつながっているようにも見えます。
先日、書店で百田尚樹氏の本をたちよみしましたが、そこには、曾野綾子さんのおっしゃるように、南アフリカのホームランドによる人種隔離政策は、この國では仕方がないものではないかと、現状を見て思った、その根拠として、中國や旧ソ連の強制移動による人種消滅があるということが記されていました。私は、自國内に無理矢理國境を定めて、部族集團を閉ぢこめるような政策は正常なものではないと思うのですが、部族の傳統という視点から考えたら、そのことについてだけ言えば、一理あるのかも知れないと感じました。
ただし、それは南アフリカが一つの言語や文化でまとまっていないからこそ起こる悲劇であって、日本のように、各地から部族集團が移住してきたとしても、天皇という象徴でまとまってきた歴史を持つ國家においては、当てはまらないのではないかと感じました。
ヨーロッパの場合も、支那・東南アジア・イスラム世界の場合も、少数集團が存在して、國内を統合しなければならないというテーゼがある限り、その國や地域にあった特殊の事情がうまれてやむを得ないのだと思います。
同じ人間だから、と私たちはよく言いますが、それは同じであっても、じつは似ているということであって、似ているということは、違っていることでもあるのだと言えるのではないでしょうか。