>>211 ブロゴスというサイトで山本直人という人が「音楽は反体制であれ」という説教はうざい、と書いてますが、一理あると思うのです。 表現というものは自分で完全に客観視できるものではなく、どんなイデオロギー排したつもりでも何らかのイデオロギーに染まってることもありうると思うのです。 例えばそういうイデオロギーの匂いを嗅ぎつけられて、特定の政治団体なんかが「じゃああの音楽をうちのプロパガンダに使おう」と言った時に、ミュージシャンは突っ撥ねることができるのか。 音楽って例えば人間の右脳まで支配するので、容易に大衆を洗脳することが可能です。そうなると仮に反体制を標榜するミュージシャンが政権を批判するような歌を作った場合、そこに作り手の個がなければ特定の思想のプロパガンダを音楽でやっちゃうことになってしまう。それは表現としてありなのか。 ポピュラー音楽の誕生のきっかけは確かに反体制的なものかもしれないし、政治的な表現は大衆が政権を批判するために必要かもしれないけど、それは普遍的な表現だと言えるのか、自分の表現者の個の部分と折り合いはついているのか。 反体制派の歌を作って大衆を扇動した結果、反体制派が多数派になって与党になったら、政権のプロパガンダを自分の表現でやってしまわないか、とか。 優れた表現者ほどそれに懊悩して悩みながら歌詞を書いたり曲を作ってるのかもしれないし、純粋にお客さんを呼んで認めてもらうためにはあえて政治的なイデオロギーを排して自分を内観した曲を作ってお客さんを上手く自分の世界に洗脳して、それから政治的な表現に踏み込んでいくとか。 単に反体制だからいい、体制派だからダメという単純な問題でもないとは思うのです。 本当に優れた表現は、単なる体制・反体制の枠を超えて、普通の世界観を歌ってる振りをして自然と聴衆を自分のイデオロギーに洗脳できる表現なのかもしれません。 例えば昔は反体制的なテーマだったかもしれないけど時代が進んだら普通のことになっていたケースもあると思います。 優れた表現者ほど、個と向き合って常に自問自答して言葉紡いでると思うのですが、シールズはそれができているのか…
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(ID:22166571)
>>211
ブロゴスというサイトで山本直人という人が「音楽は反体制であれ」という説教はうざい、と書いてますが、一理あると思うのです。
表現というものは自分で完全に客観視できるものではなく、どんなイデオロギー排したつもりでも何らかのイデオロギーに染まってることもありうると思うのです。
例えばそういうイデオロギーの匂いを嗅ぎつけられて、特定の政治団体なんかが「じゃああの音楽をうちのプロパガンダに使おう」と言った時に、ミュージシャンは突っ撥ねることができるのか。
音楽って例えば人間の右脳まで支配するので、容易に大衆を洗脳することが可能です。そうなると仮に反体制を標榜するミュージシャンが政権を批判するような歌を作った場合、そこに作り手の個がなければ特定の思想のプロパガンダを音楽でやっちゃうことになってしまう。それは表現としてありなのか。
ポピュラー音楽の誕生のきっかけは確かに反体制的なものかもしれないし、政治的な表現は大衆が政権を批判するために必要かもしれないけど、それは普遍的な表現だと言えるのか、自分の表現者の個の部分と折り合いはついているのか。
反体制派の歌を作って大衆を扇動した結果、反体制派が多数派になって与党になったら、政権のプロパガンダを自分の表現でやってしまわないか、とか。
優れた表現者ほどそれに懊悩して悩みながら歌詞を書いたり曲を作ってるのかもしれないし、純粋にお客さんを呼んで認めてもらうためにはあえて政治的なイデオロギーを排して自分を内観した曲を作ってお客さんを上手く自分の世界に洗脳して、それから政治的な表現に踏み込んでいくとか。
単に反体制だからいい、体制派だからダメという単純な問題でもないとは思うのです。
本当に優れた表現は、単なる体制・反体制の枠を超えて、普通の世界観を歌ってる振りをして自然と聴衆を自分のイデオロギーに洗脳できる表現なのかもしれません。
例えば昔は反体制的なテーマだったかもしれないけど時代が進んだら普通のことになっていたケースもあると思います。
優れた表現者ほど、個と向き合って常に自問自答して言葉紡いでると思うのですが、シールズはそれができているのか…