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山田玲司のヤングサンデー 第377号 2022/2/7

お伽噺になろうよ。

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「もうほんと、時代がチルってますよ…」


1月の終わりの夕方、茅ヶ崎のとある路地裏のBARでマスターがそう呟いた。

海が凪いで波が来ない時のサーファーのようなくすんだ笑顔で。

ウェストコーストジャズが流れる店内には俺以外誰も客がいない。

壁のスクリーンにはチャップリンのモダン・タイムスが流れていて、それをじっと見つめながら


「…そうかもね」


と言った。

飲み始めてから2時間くらい経ったのにまだ半分くらい残っているキューバリブレ。

氷が溶けてうすく、ぬるい。


「チルっている」という言葉が市民権を得たのはいつごろだったかしらん。

数年前にベッドルームポップスとかネオ渋谷系?とか、そういうのが流行ってるんですよって教えられたが、そのあたりだったかな「チルってる」の普及は。

「まったり」とか「しっぽり」とも違う、少し明るい倦怠感のような感じに俺は思っているのだが、どうだろうか?

ま、本来の意味はともかくとして、レンジとしてはそういう感じで合ってると思う。


コロナ禍の生活も、もう3年目に入った。

いつからコロナ禍なのかというのも曖昧だが、そんなことよりも時代そのものが浮遊的倦怠感に包まれている気がしている。

それは俺が勝手に自分の気分を時代に同期させたいだけなのかもしれんが、なんかこう、チルってる気がする。

チルチルミチルである。


なんだかんだ、東京オリンピックが終わるまでは気分的に張り合いというか、意識する相手、戦う相手みたいなのが見えていた。

賛成派も、反対派も、傍観者も、みんなこのコロナ禍でままならない感情のぶつけ先として東京五輪を意識していた。

しかし、それはまさに夢のように終わり、塵のように消え、世の中が少し落ち着いたかなと思った年末からまた疫病は猛威を奮っている。

そして年が明け1月が旅人のように去ってつい先日、冬季オリンピックが始まった。

まぁなんだかんだ見ちゃうし盛り上がっちゃうんだろうけど、海の向こうのことだからか、なんだか既にレコーディングされたものを見たり聴いたりしてるみたいだ。

たった半年前の東京五輪が、あまりにも遠いような、お伽噺のような、そんな感覚だからこの北京五輪も丸ごと狐の嫁入りみたいな、そんな感じ。

いや、五輪だけではなく、このコロナ禍での2年間は本当にあったのかというくらい、ふんわりしている。


メリハリ、大事。

もう大きな祭りはこの国ではしばらくないのだから、何かしら生活にアクセントをつけねばと色々やってみるんだが、いかんせんその時は楽しいのに、綿あめが溶けるみたいにすぐに遠い過去になってしまう。

友達を誘っての軽い旅や温泉巡りも、数月に一回美味い寿司を食うとかも、その時はいいんだけどなんか前より軽いのだ。

スナック菓子を食ってる感じに近いかも。

その時だけ美味いんだけど、栄養になっとる感じがしない上に、ハラモチも悪い。

とは言ってもコロナ以前は何かをやる時に栄養、つまり経験になるとか、この行為が何かにつながるのかどうか、そんな事は意識すらしてなかった。

意味があることを嫌い、無意味なことを追いかける方が燃えた。

どんなくだらないことだろうが、ただ“今”を美味しく食べることだけが喜びだった。

だがそれは「すべては明日につながっている」という盲目的な信頼があったからできたことだった。


世界はぶっちゃけ、自分にはほとんど関係のないことばかりでできている。

でもそれを自分のことのように思ったり、どこかでつながってるんだと信じていたから、世界は世界であり得た。

経済は回ったし、文化は広がったし、革命や戦争も起きた。

渋沢栄一しかり、明治維新なんて一介の百姓ですら尊王攘夷の風に吹かれた。

世界は、いいも悪いも含めて、つながっていた。

それは自分の起こした行動が、きっと大きな何かにつながっているんだという世界と、未来へのユルギナイ信頼があったから。

だから無意味な芸術も、哲学も、遊びも、ぜんぶ世界と未来とに前進的にアクセスしてたから「無意味という意味」も担保されていたのだ。

でも今このコロナ禍では、どうもその行為の底にある「言語化するまでもない未来への信頼」自体が曖昧になってしまった気がする。

端的に言って、未来がよくわからんのである。