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山田玲司のヤングサンデー 第236号 2019/4/29

ヴァラーモルグリス

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平成元年は6歳だった。

…いや、7歳だったかな?

まぁそのくらい年端もない頃だ。

仏壇のある線香臭い部屋で、爺ちゃんの膝の上で昭和天皇の御葬儀をテレビで見ていたのを思い出させる。

それまで幸いにも親類など誰の葬式も出ていなかったので、つまりは初めての「死」の客体化というか、人が「亡くなる」ということがどういうことなのかを、なんとなくの空気感として初めて味わった…っぽい。

ヴァラーモルグリス(全ての者はいつか死ぬ)。

厳粛さとか、沈黙とか、白黒の世界観とか、そういうものが死のイメージとしてあの頃のやわらかい頭に叩き込まれたわけだ。

昭和は「死」のイメージと共に終わった。


そして平成が終わる。


と言ってもそれは平成の死ではなく、終了であり、退役に近いというか。

だから少し寂しくて、優しくて、なんとなく青い。

でもそれは夜明けじゃなくて夕暮れの、日が沈んだ空の青だ。

この昭和の終わりと平成の終わりの違い、けっこう大きいよな。

俺たちにではなく、今の子供達にとって、この改元の雰囲気の違いがその子にどんなイメージを刻印するのか。

あと20年経ったら聞いてみたいな。


この「時代」という概念に無縁の人はいない。

まぁ平成や昭和なんてのは日本人にしか通じないけど、80sとか90sとか、そういう区分も時代であるし、そもそも西暦自体が人類が勝手に作った大きな虚構だ。

人間とは大きな何かにつながって生きている生きもので、家族や組織や宗教や民族や国家など、複合的な大きな枠組みの中で個人を規定して生きている。

たとえ私は無宗教だ、無神論者だ、家族も友達もいない、時代なんて関係ないと言っても、無宗教という概念に、無神論という観念に、個人という思想に類拠して生きている。

それが自分にとって心地いいかどうかは別として。


では俺にとって「平成」とはどうだったろうか。

物心ついて、自我を認識してからその人の自覚した生が始まるのだとしたら、平成30年とはそのまま俺の人生である。

俺の人生ではあるのだが、ふと思った。

この30年で自分のことと、自分以外のことを考えたり思ったりした時間は、どちらが大きいだろう。

自分のために行動したことと自分以外のために行動したことは、どっちが多いだろう。