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山田玲司のヤングサンデー 第127号 2017/3/20


「夢追い人」は最後にどうなるのか?問題


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先日、沖縄のある島を車で走っていたら、自転車に乗った人が何か「大きな生き物」を引っ張っていました。

その生き物はなんと「白馬」でした。

馬と言うにはまだ小さく、ロバよりは大きい。しかも真っ白で長毛。なんともV系なたたずまいです。


その人が何者なのかは全くわからなかったんだけど、白馬と言えば女の子達が夢見た「私を見つけてくれる王子様」の乗り物です。
そんなスペシャルな生き物が、沖縄の小島で自転車に乗った男に引っ張られていくのは、なんか複雑、かつ面白い情景でした。

「夢見る少女」が「たられば地獄」に晒されている時代を象徴するようなシーンだな、なんて思いながら、今回の「夢見るのは最高主義」のラ・ラ・ランドの話をずっと考えてました。


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〜「夢を追いましょう主義」ってどうなの?問題〜

そんな「夢追い原理主義」はおかしい、という人もいます。
確かに、人はそれぞれなのだから「夢を追わなければいけない」なんて押し付けるのも変な話です。

夢なんか持っても、実際は叶うはずはない、なんて分かっているくせに、大人は子供を見ると必ずと言っていいほど「将来は何になりたいの?」なんて「夢」を聞き出そうとする。

そして、その子供の年齢が小さければ小さいほど、大きな夢を語ることを期待する。

「僕は総理大臣になる」だの「イチローになる」とか言うと大人は喜びます。

「僕は公務員」とか言うと「今時の子供は夢がない」とかいい出す。
そのくせ、大学生くらいになった人が「将来はイチローになる」とか言っていると「いい加減に現実を見なさい」なんていい出す。

なので、この国では「子供の頃に夢を語り、大きくなったら堅実な将来設計を語る」のが定番になっている。

そうは言っても普通に生きていたら、ある時「素敵なミュージシャン」を見てしまったり「素晴らしい映画や漫画」なんかに出会ってしまうことがある。

そんな時に「いいなあ、私もやりたい」なんて思うのは当然でしょう。

目の前にそれを叶えた人が歌っていたり、素晴らしいコンテンツが沢山あると「自分にできないはずはない」と思ってしまうのも普通の話です。

そんな気持ちになった人が「そのための努力」を始めた時、いくら「その夢」が叶う確率が低くても、その人の努力をバカにするのは、やっぱりおかしいよね。

何かを始めようとして努力をしている人を「お花畑(ドリーマー)」とか「スイーツ」とか言って嘲笑する人には「本当は自分も挑戦したいと思ったけどできなかった」という思いがあるのかもしれないどね。