皆さんお元気ですか?

エーミールでございます。

現代ビジネスの定石として、もう古典的ともいえる手法がありますよね?

『続きはWebで!』

正直、どれだけのお客様が狙い通りのWebサイトに誘導されているか全く知りませんが、
なんかこう・・・クセになる響きの誘い文句に聞こえなくもないのが悔しいところです。

さて、今回の記事はそんな定石にあやかったものです。

大変多くの方にご覧頂きました、
『ギロンの主役は我々だ 第一回』のちょっとした補足を、
続きはブロマガで!
という感じでお送りしたいと思います。

この初めての企画の題名については、以前のブロマガで紹介した通りなので割愛します。

今回は、この動画の中身をに関係する補足説明となります。長いです。短信とは何だったのか

①動画の焦点について
この動画は、勢いを殺さないように編集したつもりですが・・・勢いの余り説明をほとんど置いてけぼりにしてしまった感が否めないかと思います。

メインテーマは『メタボ対策の政策』だったのですが、最終の結論はまさかの『永劫回帰』と、
一体何があったんでしょう?

正直に申しましょう!

この動画をご覧の皆様は、きっと気づいておられるでしょうが、
実は動画の焦点はメインテーマに当てられていません

では、どこに焦点を向けていたのか?

それは、『異思想間競技』です。

動画の中で、特に激しく意見の応酬をしていた二人がいましたね?

そう、グルッペン氏コネシマ氏です。

この二人は、それぞれ異なる理論を土台に主張を繰り広げていました。

グルッペン氏は『リバタリアニズム』を土台にし、
コネシマ氏は『功利主義』に立脚した展開をしていました。

この二つの理論が闘いあっていることに焦点を当てたのが本動画です。

つまり・・・メインテーマである『メタボ対策の政策』は異種格闘技戦のリングとしての役割を果たしていたわけです。


②二つの理論から見る「政策」

さて、そうなると『リバタリアニズム』と『功利主義』についての説明が必要となってくるでしょう。
間違えの無い程度の簡素な説明を試みます。

1.リバタリアニズム
リバタリアニズムを主張する人(以下『リバタリアン』)は、自由を求めます。
よく似た言葉にリベラリズム(自由主義)という言葉がありますが、彼らと考え方は全く違います
リベラリズムは、自由の生まれる前提を「社会」に置き、その社会を「公正」に維持運営していくことを一般的には重視します。従って、権力(例えば政府)が社会に介入することを肯定します。
一方リバタリアニズムは、「自己所有権原理」を掲げ、「完全」な個人の自律を目指しています。従って、いかなる権力も社会(そして自分)に対して介入することを否定します。

グルッペン氏が作中で何度も
国家が個人に介入してくるんじゃねぇ』といった発言をしているのは、このリバタリアンの基本姿勢に則っているわけです。

つまりリバタリアンは
①私は私だ
②私の所有者も私だ
③私の財産の所有者も私だ
という明快な理論を持っており、この条件を侵されない限りは(そして侵さない限りは)許容しよう!っという感じの意見を持っています。

リバタリアニズムが『完全自由主義』とか『自由至上主義』と訳されるのも、これが理由です。

2.功利主義
功利主義のスローガンは『最大多数の最大幸福』です。
有名な論者としては、ベンサム(古典的功利主義)やJ.S.ミルといった人が挙げられます。
利己主義と日常的に混同されることがあるかもしれませんね。
功利主義は、スローガンからも理解できるように、『社会全体の幸福』を重視します。効用(主に「満足度」と換言できる)は比較可能であるという仮定を基に、個々人の満足を足し合わせて社会全体の大きな満足を最大化しようという訳です。

つまり、功利主義者は
①幸福(効用)は比較可能だ(計ることができる)
②個々人の幸福は合算できる
③合算された幸福が最大になれば理想的だ
という考え方を持っていて、③の為ならば犠牲もやむを得ないという理論に繋がります。

コネシマ氏が作中で、
国富の増大は、最終的に国民の幸福につながる』と主張したり、
公益が私益を上回るなら、私益を殺すのも仕方がない』としているのは、こうした功利主義に則っているからということですね!

蛇足ですが、功利主義と利己主義の違いは、『万人の幸福が大切』か、『自分の幸福が至上』かといった相違点があると倫理学上は分類されています。

以上の二つの理論には、さらに細かい発展や分類があるのですが、申し訳ございませんがここでは触れません。

さて、ここまで辛抱強く読んでくださった方には、もうお分かりでしょう

この二つの理論、ナトリウム(Na)ですね!

だからこそ、グルッペン氏コネシマ氏を中心とした勢いのある『闘論』が展開されたわけです。

③終わりに
率直に言って、この二つの理論の間に決着は望めません。この激しい酸化現象に水でもかけようならば、水掛け論どころか火に油を注ぐ結果となるでしょう。

そこで、締めたのが鬱大先生という訳です。
ここでのミソは、あくまで『締めた』訳で、『落着』させた訳でも『纏めた』訳でもないという点です。『諦めて』もないです。

そう、この動画はあくまで『闘論』をご覧いただくモノ・・・。結論を出すのではなく、ギロンの火花を愛でるものであってほしいと思って編集しました。

今後もこのシリーズは、身近なセイギを見つけるべく、ギロンを重ねていくと思います。
決着がつかずとも、我々だメンバーが色んな立場からぶつかり合う火花を、皆様には花火のように楽しんで頂けるような動画を目指して、エーミールは努力して参ります。

大変な長文でございましたが、初企画に関する補論をエーミールがお送りしました。

ご覧いただきありがとうございました。