ツイッターはオワタ?

前々回のメルマガ「ツイッターは終わったか?」(連載1回目)の掲載後、すぐさま大きな反響があった。

「2ちゃんねる化したツイッターは終わったも同然だ。もう利用していない」という政治家もいれば、「いや終わっていません。それどころかどんどん健全になっていると思います」(乙武洋匡氏/週刊SPA!連載『革命期のトリスタたち』の筆者との対談の中で)という識者もいる。

どちらにせよ、日本語版の登場から現在に至るまで、ツイッターが日本の言論空間に与えた影響は小さくない。

その日本版ツイッターの登場から3年余、役割は細分化され、利用者の個人個人で使い方も、重要度も違ってきている。

それはある意味、乙武さんの言うように、ツイッターが健全なメディアになってきた証ともいえる。

さて、今回の連載の意図を告白すれば、登場から3年を経て、情報流通のひとつのインフラに成長したツイッターを改めて考えてみようということであり、ツイッターの是非も含めて議論のきっかけにしようという目論みに他ならない。

きっかけとして同テーマでの連載を開始し、さらにはNOBORDER全体での共通テーマまで広げていけば、新しい発見もあるのではないかというのが私の狙いだ。もちろん、そのゴールは言論の多様性に他ならない。

ところが、いやその黎明期からではあるのだが、ツイッターの世界にも短絡的思考に陥る人が少なからず存在するのが残念だ。