僕が初めてソニーミュージックの信濃町スタジオを訪れたのは、ソニーミュージックに入社してからではない。
早稲田大学の学生だった頃、僕はコロムビア所属だった麗美さんなどいくつかのアーティストのサポートミュージシャンをしていて、その一人、ソニーミュージック所属だった伊藤美奈子さんのリハーサルで信濃町スタジオのリハーサル用ブースへ訪れたのが最初だった。
それが確か1984年春だったと思うから、約4年半後の1988年12月、YOSHIKIがそのリハーサルブースで「BLUE BLOOD」レコーディングのためドラムスの最終個人リハーサルをやることになったわけだ。
また、同じ頃に僕が「ENDLESS RAIN」のデモテープを信頼できる同僚に聴かせたところ、彼が曲の美しさに驚いてくれたのも、やはりこのリハーサルブースだった。
初めて信濃町スタジオを訪れた時は自分がソニーミュージックに入ることは考えていなかったし、いずれその信濃町スタジオで「BLUE BLOOD」のレコーディングを行うという素晴らしい未来が待っていることを、その頃の僕はまだ知らなかった。
「Jealousy」のレコーディングがいくつかのスタジオで行われたのに対して、「BLUE BLOOD」レコーディングはオーケストラレコーディングを除きほとんどが信濃町スタジオで行われたので、僕の中では「BLUE BLOOD」レコーディングへの想いはそのまま信濃町スタジオに繋がっている。
長くていつ終わるのか見えないけれど、妥協を一切せずに自分たちの音楽を信じながら続けたレコーディングの記憶が、ドアを閉じた瞬間に密閉されて様々な機器の独特な香りが立ちこめるスタジオの空気と共に、心の中にしまわれているのだ。
拙著「すべての始まり」にもこんな描写がある。
一日の休みもなく、レコーディングを続け、気がつくと2ヶ月近くになっていた。厳密に言えば、YOSHIKIと僕だけが、休めなかった。2人とも、やらなければならない事が山積みで、休みたくても、一日も休めない。もう、この頃になってくると、レコーディング中の研ぎ澄まされた時間以外は、頭の中がふわふわになってくる。この頃、僕はほとんどスタジオの宿直室に泊まりこみだった。
朝起きて、スタジオのカフェテリア(ソニーミュージックの全てのアーティストが使うため、色々な人間が使用する)にふらっと現れ、ジュースを飲む僕が、まるでスタジオに住む亡霊のようだったと、後日、人に言われたりしたものだ。
また、この頃になると僕だけでなく、メンバーの5人もスタジオに泊り込みをしていた。信濃町スタジオには、リゾートスタジオのような宿泊施設は当然ない。メンバーは寝具持参で、好きなソファなどを確保して寝るのだ。もはや合宿である。おそらく、信濃町スタジオで泊り込みレコーディングをしたアーティストはエックス位なのではないだろうか。
まさにレコーディング=信濃町スタジオといった感じだが、この2ヶ月以上にわたった長いレコーディングの記憶を辿ると、時期によって僕の気分もメンバーの雰囲気も少しずつ変化していったような気がする。
ドラムスなどリズムセクションのレコーディングを進め始めた初期の頃は、大切な作品を新しい環境で録ることからメンバーもピリピリしていたし、僕もベストなトラックを録ることはもちろん、Xというバンドの特殊性とオリジナリティをエンジニアに理解してもらうことにも必死だった。
やがてギターやヴォーカルのダビングがメインとなるにつれて緊迫感は少し和らぎ、僕もメンバーそれぞれの想いや精神状態に合わせたディレクションを進めるようになっていった。
「すべての始まり」の〜HIDEの部屋〜という章で描かれている、HIDEが逆境を乗り越えて新しい音世界を形にするエピソードなども、この時期のことだった。
ただ、この時期になると、僕はレコーディングのディレクションに加えて、様々な楽器のヴォイシングやヴォーカルのハーモニーなど、アレンジに関わる作業も進めていく必要があった。
「WORLD ANTHEM」のギターヴォイシングや「EASY FIGHT RAMBLING」「CELEBRATION」のヴォーカルハーモニー、そして「ENDLESS RAIN」の細かなアレンジなど、レコーディングをサポートすべきことは色々あった。
僕自身の作業バリエーションが増えていくのと、メンバーそれぞれのやるべきことが細分化していくことで、その整理とスケジュール進行も複雑になっていく。
こうしてレコーディング初期の緊迫感の代わりに、まとまりのつかない忙しさが増えていき、僕はスタジオに泊まることが多くなっていった。
ただ、この時期はレコーディングそのもの以外の出来事で、懐かしく楽しい記憶も多い。
「すべての始まり」の〜にんじんりんごジュース〜という章にあるゲーム機で大騒ぎをするメンバーの様子や、〜不気味な声〜の章にある怪奇現象事件、さらに信濃町スタジオでは初となったであろう、「X」や「オルガスム」で過激な風貌のバンド仲間たちがたくさん集合した異様な雰囲気の中、シャウトをレコーディングする時間など、心温まり笑いの止まらない時間もあった。
しかしやがて作業が大詰めに近づく時期になると、どれだけ時間をかけようと決して音楽的な妥協はしない、という方針がもたらす「ENDLESS Recording」の日々は、やがて先に引用した「すべての始まり」の描写に繋がっていく。
そう、僕はスタジオに泊まり続け、全く外へ出なくなったのだ。
時間との闘いにより、睡眠や体力などはどんどん犠牲になっていき、とにかく気力と気合いと音楽への想い、そしてアルバム完成への執念だけがレコーディング作業を支え、いくつもの難関をクリアしながら、レコーディング開始から2ヶ月と1週間ほどで、やっとレコーディングは終了する。
最終作業、マスタリングについては「すべての始まり」にこうある。
全身全霊をかけてレコーディングした「BLUE BLOOD」の完成は、メンバーにとっても感無量だったと思う。
世界のどこにもない全く新しいアルバムを生み出すことに成功したのだから。
もちろん世のアーティストが概してそうであるように、全てを出し切ったにもかかわらず「もっとできたのではないか・・・」という気持ちはメンバーの中にもきっとあったことだろう。
実際、よくミュージシャンの頃によく聞かされた「もっとできたのではないか・・・という気持ちが次のアルバムを生み出すからこそアルバムを作り続ける意味がある」といった伝統的なメッセージを、僕もYOSHIKIやTAIJIに伝えた記憶がある。
そして、それが事実であることは次のアルバム「Jealousy」で明らかになっていく。
いずれにしても、1989年4月21日にリリースされたXの大切なメジャー第1弾アルバム「BLUE BLOOD」は「どれだけ時間をかけようと決して音楽的な妥協はしない」という方針によって、33年経った今も決して古くなることなく、世界中で聴かれ、愛され続けている。
レコーディングに携わった人間として、これほど嬉しいことはない。
「BLUE BLOOD」レコーディングの記憶が懐かしくて訪れたくなっても、残念ながら今はもう信濃町スタジオはない。
ちょうど「Xという物語」の二度と戻らない懐かしい時間への寂寥感は尽きないけれど、その時に戻ることはもう決して不可能であることに似ている。
過去は常に消え去り、今しかない。
だから記憶は大切にしたいと思う。
「BLUE BLOOD」を聴くことで蘇る記憶や感情は
聴く人すべてが持つことのできる
貴重で幸せな宝物なのだと思う。
2022年4月21日 津田直士
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