1988年の春、誰かに教えてもらうことなく、ひたすらオリジナリティの塊で始めた新しい挑戦は、それから2年後に大きな成功を収めていた。

そしてその成功は、僕の生きかたに大きな影響をもたらした。

未来は自分で創るもの・・・

あの重苦しい毎日を自分と闘いながら前進し続けることができたのは、未来は自分で創るものだと信じていたからだ。

中2で突然ピアノを弾き始めたことも、20才でプロのミュージシャンになったことも、自分のクリエイティブを一旦脇に置いて新しい才能を世に送り出すためにソニーミュージックへ入社したことも、ちゃんと目的があったからだ。

それは『未来を自分で創る』というシンプルな目的だった。

自分が望む人生を自分で描いて、たとえ長い時間がかかっても、必ず現実にする。

それが『未来を自分で創る』ということだった。

1990年の春。29才になっていた僕は、自分が『未来を自分で創る』ことをちゃんと実現し始めていることに気づいた。

そしてプロデュースを手がけ始めた当初、闘っていたあの心の苦しみや悩みが、実現するための大事な要素だったことにも気づいた。


『未来を自分で創る』ために必要なのは、まったく新しいことを始めることの難しさに負けないことだった。

それはひたすら『自分との闘い』だった。

『未来を自分で創る』ために必要なのは、社会や組織、競争相手などに勝つことではなく、目の前に現れた壁をどう乗り越えるのか、その乗り越え方を自分で見出すことなのだ、と気づいた。


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そしてその頃僕は、もうひとつ重要なことに気づいた。

それは

『たとえ自分がどんな場所のどんな立場であっても、大切なのは自分だけが持っているオリジナルな輝きであり、その輝きが大きな成果を生み出す可能性は無限にある。』

ということだ。

もし僕が駅のホームで見知らぬ人とたまたま会話することになったら、おそらく名刺交換をするだろう。

相手は僕のことをレコード会社の社員だと理解し、僕はその相手を私立高校の教師だと理解する。

けれど、それはお互いの人間を理解したわけではない。

どんな組織に属し、どんな立場の仕事をしているのか、を知っただけだ。

ひとりの人が持つ輝きやそのエネルギー、そしてそこから生まれる限りない可能性は、その人が属している組織や立場、仕事などからは決して見えてこない。

その人の限りない可能性は、いわば『裸の状態』にある。

もしその『裸の状態』である人が何かを始めようとした時・・・。

その人が想うこと、目指すこと、賭けること、そして始めることに、未来がないと言い切れる人間は誰もいない。

可能性は無限にあるのだ。


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そう気がついてから、僕は『レコード会社の社員である津田直士』

であることを、心の中でやめた。

そして、自分にできることの可能性に気づいて飛び上がった。

やりたいことを数えて踊り出した。

ふと、実現するために必要な自分自身との闘いを考えて座り直した。

でも・・・

やりたいことがあまりにあり過ぎて、ネガティブな気分にはなれないことに気づいた。

結局またワクワクして、踊りだし、そして決めた。

僕は、とにかく自分らしく生きる。

何があっても自分らしい人生を創り続ける。

おそらくこの時に僕は気づいたのだ。

『人生は映画、その主人公は自分』

だと。

そうして僕は、『自分らしい生きかた』の実践を徹底することにした。


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そんなわけで、僕が『自分らしい毎日』を送るようになったのは、
おそらく1990年頃からなのだろうと思う。