「あ、作りすぎちゃったや…」
鍋にこんもりと残った夕飯のおかずを見て、私は顔をしかめる。こんな時によみがえるのは、いつも嬉しそうにご飯を掻き込む彼の姿だった。美味い、美味いなんて言いながらいつもクールな彼が無邪気な子供のようになる瞬間だ。
「なんで、なの…」
また涙が溢れてくるのを止められなかった。二人分の食事を作って、彼の訪れを待つことがこの夏休みの定番だ。今でも、彼がふと来てくれるんじゃないかという淡い期待が拭い切れなくて、そしてそれに気づいてしまってただただ切ない気持ちになる。
彼が突然いなくなった。
だだっ広いリビング。彼がいない夏休みはつまらなかった。メイクをするのも、お気に入りの服に着替えるのも彼に見せたいから。全部全部、私の行動は彼に向いてしまっていた。
今日も連絡がないことを告げる携帯画面が恨めしい。
「どこに行っちゃったんだろう…」
会えないのなら、いっそのこと嫌いになってしまいたい。でも、やっぱりダメだ。嫌いなところをいくら探しても見つからない。考えないようにしよう。それなら、忘れよう。しかし、忘れようと思うたびに彼の存在の大きさに気づいてしまう。
そろそろ22時。いつも彼とバイバイしていたぐらいの時刻である。私の日常には彼が刻まれすぎているみたいだ。深くため息をついて、ソファに座りこむ。
と。ふと、リビングの郵便物の中に便箋が紛れていることに気づいた。
「あれ、何だろうこれ…?」
なんとなく手にとってみると、体に電撃が走った。彼の字だろうか。不器用で拙い文字が並んでいる。ふふ、と思わず笑みが零れる。
「わぁ……」
家の中の彼の痕跡が日々の積み重ねでどんどん失われていく中で、彼の手紙は嬉しかった。久々に笑顔になって、私は手紙を開く。が__
”きっと、この手紙を読むころには俺はいなくなってると思う。
いきなりさびしい思いさせてごめんな。”
出だしの数行で一気に涙が溢れる。これは、彼からの別れの手紙なのだと。この手紙を読んだら、本当に彼との関係に終止符が打たれてしまう。読みたくない。反射的にそう思った。来ない連絡を待ちながら、まだ終わらない関係に甘えていたい。でも…
彼がいなくなった理由を知りたい。鼓動が高鳴るのを感じながら、私は手紙を読み進めた。
”お前のこと本当に本当に好きだった。あんまり、直接言うことは照れくさくて少なかったかもしれないけど。だから、こんな風にいなくなったりしたくはなかった。でも、事情を話そうと思う。
きっと信じられないとは思うんだけど、夏の始まりにカブトムシ助けたの覚えてる?
実は、俺、あのときのカブトムシだったんだ…なんでそれが人間になったんだって? 俺にもわからない。ただ、事実として言えるのはあの時お前に恋をしたことと、何故かそれによって人間になれたってこと。
信じられないよな? 俺も信じられないよ。人間になったのもそうだけど、一目惚れしたお前とこんな風に幸せな毎日を過ごせるってことも。本当に幸せだった。ありがとう。
お前は強いようで弱いから、残しておくの心配なんだよな。でも、そろそろ限界みたいだ。何も言わなくてごめんな。お前が悲しむ顔見たくないから、言えなかったんだ。本当にごめん…。愛してるよ”
「ずるい、ずるいよぉ…」
私は衝撃と悲しみとで泣きじゃくっていた。居なくなっても大好きだなんて。そんなこと言わないで欲しかった。それはある意味呪文で、私の脳裏に彼の愛してるが刻まれ続ける。
カブトムシ…。本当なのだろうか。悪い冗談なんじゃないだろうか。俄かに信じがたく、私は子供のとき使っていた百科事典からカブトムシの項を探す。これが夢であってほしいと。
そのとき。紙がはらはらと落ちてきた。
「…?」
相合傘だった。相合傘…。あの夏の海の日がよみがえる。あの日、相合傘を書いたことを思い出した。あの時は冷たかったけど、彼、本当は…。
ぽたぽた頬を涙が伝う。ありがとう。本当にありがとう。
カブトムシ。学名はTrypoxylus dichotomus septentrionalis Kono。寿命は、一カ月~二か月。
秋の風が私の頬の涙を拭う。まるで私を慰めるかのように。その秋の風に微かな夏の残り香と、彼を感じる。
夏の終わりと恋の終わり。終わってしまう夏を惜しみながら、いつまでもこの恋の余韻に浸っていた。
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文字は拙いが漢字は使いこなすかぶと虫くん