全訳古語辞典 のコメント

はじめまして。

記事を読ませて頂き、大きく違和感を覚えたので書き込ませて頂きます。初見なのに長文を書かせて頂きますこと、どうかご容赦ください。
初めに率直に私の結論を述べます。三幕構成は週刊少年漫画という形式にはそのまま当てはまらない、敢えて用いるならば細かい単位で当てはめるものであり、戸塚様は無理にそれで物語を分析していて、要点を見誤っていると思います。

以下、具体例を出して論を展開させてください。
以前戸塚様は冨樫先生のコマ割りを分析なさっていたので、ハンターハンター(以下ハンターと表記します)を引き合いに出してみます。

三幕構成の用語で言えば、ハンターのセントラルクエスチョンは「父親探し」であったと端的に言えると思います。現在では既に達成されていますが、それまでは「父親探し」が物語の目的であったでしょう。
三幕構成の理論からすれば、特に二幕以後は、このセントラルクエスチョンを軸にして物語が展開されていくはずです。しかしながら、ハンターを読み進めていく時、それが「父親探し」の物語であるということは常に意識されているでしょうか。読者からしても、その都度の展開の方に意識を置いて読むのが普通のように思われますし、作者もそのように書いているように見受けられます。
ハンター試験、天空闘技場での闘い、と物語が続いていく時、大枠では「父親探し」が目的となっていますが、むしろ「ハンター試験に合格できるのか」「念を習得して、ヒソカと対等に闘えるのか」と言ったそれぞれの場面における細かな目標の方がクローズアップされているのではないでしょうか。
そのことが決定的になるのが、いわゆる「ヨークシン編」です。ここで主人公のゴンは父を探す重要な手がかりとして「グリードアイランド」というゲームを落札しようと目論み、そのための資金繰りに奔走します。しかし、次第に友人のクラピカと幻影旅団との抗争に注目し始め、最終的にはグリードアイランドは保留にして、一先ずクラピカの助力に専念することを決めます。
三幕構成で見たら、これはすなわち、セントラルクエスチョンの放棄を意味します。戸塚先生のゼクレアトルの分析で言えば、メタ構造と直接関係のない、魔王とのやり取りを描くのに近いと言えるでしょう。しかし、だからと言って冨樫先生はそれを「さっさと終わらせ」るようなことはせず、話数をかけて「ヨークシン編」を描き切りました。セントラルクエスチョンに直接関わらない、という意味では後の「蟻編」も同様です。

このように、セントラルクエスチョンから外れた構成をしているから、ハンターは構成上失敗しているのか、と言うと、もちろんそうではないでしょう。ハンターを批判する意見として「構成が弱い」というものはそこまで耳にしたことがありません。
では、ハンターは三幕構成に依らないという意味で、特殊な作品なのでしょうか。私見では、それは逆で、むしろ現在の少年漫画でこのような構成を取っているものは少なくないと思います。
その構成とは、具体的には、ある程度のまとまりを持った章を次から次へと展開させていく、というものです。作品全体のセントラルクエスチョンがあるなら、それは連なった章の全体から見えるものであったり、また作品を締め括る最後の章で重点的に描かれるものであったりするわけです。ですから、全ての章がセントラルクエスチョンと密接に関わっている必要はありません。
もちろん、構成に関しては作品ごとに特色がありますから、一概に言えるものではありませんが、そのような傾向があるということは指摘できると思います。

ですから、ゼクレアトルに関しても、魔王とのいざこざが中心になり、「メタを破る」というセントラルクエスチョンから一時離れたとしても、それは構成上の失敗とは言い切れないと思います。
ごく自然に考えてみても、魔王と立ち向かうことにある程度話数を費やし、丁寧に話を展開することが悪いこととは思えません。
むしろ、そこのところをおざなりにして、いきなり「脳をデータ化して対抗する」などと言われても、だったら魔王は何だったのか、ということになります。そう簡単に和解するようならその目的に全く重みがありませんし、敵として登場させた意味も極めて薄くなってきます。
ハンターの例に戻ると、ヨークシン編の最中に、「グリードアイランドはどうなったんだ! 幻影旅団なんてどうでもいいから、早くジンの話に進め!」という読者もいたかもしれません。しかし、少なくとも現在はヨークシン編はかなりの程度支持されています。
それはヨークシン編が純粋に面白いからでしょう。たとえ当初の目的(セントラルクエスチョン)と違った展開になったとしても、その都度面白ければ基本的に漫画は受容されていくものだと思います。

ここでゼクレアトルの問題について述べれば、結局面白い展開が作れなかった、ということに尽きると思います。極端に言えば、さおりさんがおっしゃっているように、言葉で示されるだけで展開すらないと言えるかもしれません。戸塚様自身仰っている、「構造に当てはめる事を目的に、ストーリーを組み立て」るという傾向は完成した作品からも非常に強く感じられるのです。

魔王との戦いは、むしろしっかり描くべきだったのではないですか。バトルスーツになったり、エゼルを使ったり、部活を作ったりと、話の展開はどんどん変わるのに、全てがおざなりになっていたのが問題だったと思うのです。仮に、これらの展開が全てハンターのヨークシン編並に深いものだったら、(たとえセントラルクエスチョンから外れていたとしても)きっと大成功していただろうと思います。
それは極端な譬えだとしても、とにかく今回わざわざ長文を書いたのは、「三幕構成に当てはまっていないから問題である」というのは間違っていると思ったためです。問題点があるとすれば、他にあるのです。

最後に、なぜ現状少年漫画が三幕構成をあまり取り入れていないのか、愚見を述べたいと思います。
そもそも、三幕構成は映画のために作られている、ということを考える必要があるでしょう。
映画は時間の芸術でもあります。表現上、時間は武器であるとともに制約でもあり、映画監督はこの意識なくして作品を作れません。

途中休憩のある長いものもありますが、それも含めて映画の上映時間というものは大体決まっているわけです。そうなると、その時間の配分について、あまりに導入が長すぎても良くない、主題からずれた展開を長々とする暇はない……と、ある程度の基準が考えられます。二時間でそうそういくつもテーマを盛り込めるはずもありません。三幕構成というはっきりしたものが打ち出される以前にも、こうした意識が存在したことは間違いありません。
また、テレビの興隆による映画産業の斜陽化により、長い作品は一層好まれなくなりました。ハリウッドでも、定式化した作品が六十年代以降加速的に増え、求められました。こうした状況が、三幕構成という一つの公式を作り出す機運にもなったのでしょう。

時間に制約がある映画の脚本について言うなら三幕構成は妥当なものなのですが、他の媒体にそれが直接当てはまるとは言えないのではないでしょうか。小説や漫画はいくら展開を足しても支障がないので、三幕に限定する必要はありませんし、(特に長編であればあるほど)大きな主題から逸れる瞬間があっても、必ずしも問題にはならないのです。
連載を前提としている週刊漫画が三幕構成を取らない理由がここにあります。1巻や2巻で完結するなら、三幕構成で良い展開ができるでしょう。しかし、長くなってくるとそれに従う必然性もありませんし、多くの場合、一つの中心的な主題だけで引っ張るのは無理があるでしょう。単純に話が持たないということもありますし、週刊連載でそこまで長大なスパンで考えるのは難しいということもあります。ですから場合によってはテーマを一時保留して違う話に移っても全く問題がないわけです。

しかし、例えば少年漫画でそれぞれの章について三幕構成を当てはめる、ということは便宜上できると思います。もう一度ハンターを例に取ると、ヨークシン編についてはセントラルクエスチョンは幻影旅団の壊滅、一幕と三幕は……などと考えてみると面白いのではないでしょうか。
このように、他の媒体でも三幕構成を応用したり、考え方を取り入れたりすることは有用となる場合もありますが、今回戸塚様が行っているように、直接漫画に当てはめて、それだけで分析するのはあまり意味がないと思います。したがって、その分析結果もほとんど的外れのように感じられてしまいました。
長くなってしまいましたが、以上です。乱文失礼いたしました。それでは十一月を楽しみにしております。

No.36 100ヶ月前

このコメントは以下の記事についています

戸塚たくすチャンネル(有料更新停止)

戸塚たくすチャンネル(有料更新停止)

このチャンネルの詳細