2章 いったい何を言えばいいの



はじめから よむ (第1回へ)

 突然の死刑宣告からどれくらいの時間が経っただろう。三十分か。一時間か。

 僕は酒場の隅っこの壁にもたれかかり、がたがた震えていた。

 カウンターにいるドレアさんから見える位置だと気まずいので、カウンターの奥からはちょうど死角になるような位置をキープし、「酒場にはよく来るんです」「この壁の横が僕のお気に入りスポットなんスよ」と言わんばかりに必死で平静を装っていた。できるだけ変な目で見られないようにしたかったが、手首を回したり、前髪を触ったり、目線だけチラチラ動かしたりと全く落ち着きがなかったので、爆弾でも仕掛けようとしている不審者にしか見えなかっただろう。通報されなくて本当によかったと思う。

 僕がいるのは壁の前。ヤニとホコリで薄汚れた、場末の酒場の壁の前。

 ああ。そうだ。壁なんだ。

 

 人生にはしばしば、乗り越えるのが困難な壁があるという。

 まさか魔王討伐そのものではなく、そのための仲間の勧誘が、こんなにも大きな壁として立ちふさがってくるとは思わなかった。嫌だ嫌だと逃げてばかりいたので、今までちゃんと向かい合ってこなかったが、まっすぐに壁を見据えてみて初めて問題の大きさに気がついた。突破口がまるで見つからない。今僕がもたれかかっている酒場の壁とはえらい違いだ。こんな、叩いたらすぐ穴が空きそうな朽ちかけの壁じゃない。例えるなら、世界最先端の技術で造られた特殊合金を使用し、銃弾やミサイルをも防ぐ完璧な安全性。ネズミ一匹入り込めないスキのなさ。難攻不落の要塞だ。その要塞に丸腰で立ち向かうハイティーン。しかし、丸腰だろうとなんだろうと、この壁を乗り越えられなければ僕は終わりだ。僕にとって「仲間を勧誘する」とは、そういうことなのだ。

 声はちゃんと出るだろうか。裏返らないだろうか。

 またゾンビみたいな声が出たらどうしよう。考えたくもない。僕はンー、ンーと小さな声で、誰にも聞こえないように発声練習をし、喉に何かがつまったような違和感を振り払うべく咳払いをくり返した。

 話しかけて嫌な顔をされたらどうしよう。

 さっきはドレアさんがにこにこしていてくれたから良かったものの、あの時ドレアさんから「ハァ? 何? 男なんだからハッキリしゃべったらどうなの?」なんて強い口調で言われていたら、あまりの精神的ショックで僕は卒倒していただろう。比喩ではない。本当にショックで死ぬと思う。相手からすれば迷惑極まりない話だ。いきなり目の前でショック死されたらたまったものじゃないだろう。僕のガラスのメンタルは規格外の脆弱さなのである。

 そもそもなんて話しかけよう。話を切り出す最初の一言すら思いつかない。

 知らない女性に声をかけてデートに誘う男がいるが、僕にしてみればあんなもの健全な出会いとは思えない。欲望と本能に忠実な、自分勝手で野蛮な行為だ。そんな男を見るたびに僕は心のどこかでそいつの事を軽蔑していたが、今はっきり思う。そいつのことが羨ましい。

 なんて事はない。知らない女性に声をかけてデートに誘うなんて大それたことが僕にはできないから軽蔑していただけなんだ。僕だってそんな能力があったら、思う存分そこらの女性に声をかけ、デートに誘っていただろう。借金にまみれた人間が「本当に大切なのはお金じゃない」なんてのたまうのと同じ物悲しさを感じる。ないものねだりをしているのだ。持ってないから嫌悪するのだ。隣の芝が青すぎて、まぶしくてたまらないだけなのだ。

 疲れた。もうダメだ。壁にもたれて立ってるだけで疲れた。

 口から出るのはため息ばかり。具体的な誘い文句なんて、ひとつも出てきやしない。

 魔王討伐の夢にピシピシと亀裂が入り、砕けかかっているのを感じた。

 

 ふとその時、見慣れないものが視界をかすめた。

 小さかったので、最初は幼稚園児か、小学校に入りたてくらいの子供かと思った。しかし、そうではない事はすぐにわかった。肌が濃緑色だったからだ。それだけではない、切れ長に伸びた耳と、天狗のように長い鼻。しまりのない口からはキバのようなものが覗いている。

 完全にゴブリンだった。

 今まで図鑑でしか見た事がなかったので、ホンモノを見るのは初めてだった。へえ、こんな形をしてるんだ、思ったより小さいな、というよりもなんでこんなところにゴブリンが! 街の酒場の中ですよ! ちょっと誰か! 誰かああ!

 こんな時くらいギャーとかヒーとか叫べばいいのに、僕の口といったら「こしゅううう」「すぴいいい」なんて激しく空気を吐き出す無様な音しか出ない。人間、本当にびっくりした時には声なんて出ないということを身をもって知った。早く。なんか武器。ああそうだ王様からもらった銅の剣! どこだ銅の剣、ああ、うわあ! 悪霊退散! 悪霊退散!

 虫が大嫌いな奴がゴキブリを発見してしまった時みたいなうろたえようで、僕は手足をガクガクさせながら必死で銅の剣を探して荷物をまさぐった。ゴブリンは、まだ、こちらに気づいていない! 早く、銅の剣で先制攻撃を叩き込むんだ!

 しかし次の瞬間、ゴブリンがちらりと横目で僕の方を見た。背筋に緊張が走る。

 ダメだ見つかった。終わった。今の僕で勝てるのか、ゴブリンに。

 武器を装備していない今の状態でまともに戦って勝てるのかわからないが、もうやるしかない。僕は半ばやけくそで、両腕を振り回しながらゴブリンに向かっていった。

 が、しかし。ゴブリンはそんな僕を制して、言ったのだった。

「待った! オレサマは、悪いゴブリンじゃないぜ」

 えっ! はっ? はい?

「だから、いい事を教えてやる。ちょっと落ち着け」

 ゴブリンがしゃべった。

 あまりにも突然の事に頭がついていかない。ゴブリンは人間の言葉をしゃべるのか? そんなこと、昔読んだ図鑑には書いてなかったぞ? 僕は混乱していた。

「落ち着いたか? 話を聞く気になったか? 何か意思表示をしろ」

 僕は昔観た映画を思い出し、人差し指を立ててゴブリンに近づけてみた。

「オマエ自転車で夜空に飛んでいきたいのか? オレサマは宇宙人じゃないぜ!」

 それはわかる。どう見たってゴブリンだ。

 しかし気になるのはこのゴブリン、さっきからずっと体の向きがおかしい。ずっと九十度真横を向いた状態で話しかけてくる。僕から見ると、ちょうどゴブリンの左半身だけ見えるのだが、そのせいで鼻の高さや耳の長さ、口元から見えるキバが強調されて非常に不快だった。

「オレサマはヨコリン。ヨコ向きのゴブリンだから、ヨコリンだぜ」

 僕が今まで生きてきて聞いた理屈の中で、もっとも破天荒な理屈ナンバーワンだった。

 横向きだからヨコリンて。それは正面から見たらどうなるんですか。なんか、人ごみの中とかにいたら正面からあなたの事を見る人もいるでしょうに、その人にも「ヨコリンだぜ」って言うつもりなのか。なんだコイツ。完全に破綻してる。頭痛い。

「オマエ、これから酒場で、仲間を勧誘して連れていくつもりなんだろ?」

 え。あ、はい。

「オレサマがアドバイスしてやるぜ!」

 そう言ってヨコリンはニタニタ笑った。

 なんてゲスな顔で笑うんだコイツは。

 こんな理不尽極まりないゴブリンが僕にアドバイス?

 こんなビリジアンの肌してる奴が、僕に、アドバイス?

 ちょっと待て落ち着け、状況を整理しよう。

 どうせ他に頼れる人はいない。自分だけの力ではどうしようもない。だったらこのゴブリンのアドバイスを聞いて、少しでも何か得られるものがあればいいじゃないか。でも、なんでよりによってゴブリンなの。友達もいない、恋人もいない、唯一話しかけてくれるのはゴブリンだけ。運命は時として残酷なのですね。こんな十七歳もいるのですね。ああそうそう僕今日十七歳になったばっかりなんです。誕生日なんですよ。それなのに、ああ、ちくしょう、なんて日だ! もうどうにでもなれ!


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