今日の横浜北部は朝からよく晴れました。
昨日でミアシャイマーの『大国政治の悲劇』に関する訳出作業がすべて終わったのもつかの間、大学の授業の準備や次の本の訳出作業などもありますので、常に仕事はありますね。
さて、先週の放送(http://ch.nicovideo.jp/strategy/live)でも少し触れた
「イスラム教の土着性」についてのすぐれた論説記事がありましたので要約です。
これは最近HBOで放映されて大問題になった、以下のトーク番組でのイスラム教についてのコメントが炎上した件に関係するものです。
この時のゲストたちは、イスラム教側に批判的な側として右側に座っている二人(司会者のビル・マーとサム・ハリス)と、左側の寛容派である俳優のベン・アフレック、NYタイムス記者のニコラス・クリストフ、そして共和党元全国委員長を務めた経験を持つ黒人のマイケル・スティールたちの三人。
以下のように議論しております。
▼Youtube |
Real Time with Bill Maher: Ben Affleck,
Sam Harris and Bill Maher Debate Radical Islam (HBO)
この番組での議論を元に書かれたのが、以下の記事です。著者はイラン系アメリカ人で宗教学を専門とするカリフォルニア大学の先生です。
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宗教をわかっていないのはビル・マーだけじゃない
by レザ・アスラン
●ビル・マー(BILL MAHER)の最近のイスラム教に対する暴言は、とりわけイスラム教に関する宗教的暴力の問題ついて激論を巻き起こすことになった。
●このマー氏の暴言は「イスラム教はまるでマフィアみたいだ」というものであったが、彼はオバマ大統領がテロ集団で「イスラム国」に対してイスラム教を体現していないと発言したことに立腹したという。
●彼の視点では、イスラム教は「ISISとあまりにも共通点がある」という。
●彼のコメントは嵐のような反応を巻き起こすことになり、中でも同じ番組でゲストに呼ばれていた俳優のベン・アフレックによる、イスラム教徒に対する「不快で人種差別主義的」な一般化だ、という非難は、最も強烈なものであった。
●それでもこの両者の議論には、宗教と暴力に関していえば、それぞれ大きな穴がある。
●たとえば一方で、宗教を本当に信じている人間は、自分の宗教の中の過激主義の人間と熱心に距離を置きたがるものであり、そのような暴力が宗教的な動機によるものではないと否定することが多い。
●これはとりわけイスラム教徒に当てはまるケースであり、イスラム教の名を語りながらテロ行為を行う人間たちを「奴らは本当のイスラム教徒ではない」と拒絶することが多い。
●その一方で、その宗教を批判的に見る人々は、その絶対主義以外の部分を理解できていないことが多い。彼らは宗教書の中に記されている蛮行を指摘したり、その歴史の中の極端な例を持ちだしてして、世界中の抑圧の原因になっている一般化してしまうのだ。
●信じる側と批判的な側の両方が共に忘れていることが多いのが、宗教はその信じていることや実践よりも、はるかに「アイデンティティ」の問題に直結していることが多いという点である。
●つまり「私はイスラム教徒です」「私はキリスト教徒です」「私はユダヤ教徒です」という言葉は、彼らが何を信じていて、どのような宗教的な行為を日常的に行っているかではなくて、単純に自分たちのアイデンティティ、つまり世界の中でどのような位置を自分たちが占めているのかを表現したものであるということだ。
●宗教というのはアイデンティティの一つの形であるため、文化、人種、民族、性別、そして性的志向のように、その人を構成しているその他の要素と分離できないものである。
●たとえばテキサス州の郊外のメガチャーチ(巨大教会)のメンバーであるキリスト教徒と、グアテマラの山々でコーヒー豆を採取している貧しい農民のキリスト教徒の間にはかなりの違いがある。
●サウジアラビアのイスラム教徒の文化的な習慣は、社会における女性の立場という点から見れば、その他のもっと世俗化したトルコやインドネシアのような国のものとはだいぶ違うのだ。
●インドに逃れているチベット人の仏教徒と、ミャンマーの少数民族であるロヒンギャ族の戦闘的な仏教徒の違いは政治文化の違いによるものであり、仏教そのものとはほとんど関係のないものだ。
●あらゆる宗教は真空状態の中で存在できない。すべての宗教は、それが植えられた土壌に根を張っているものだ。つまり「宗教を信じている人間の価値観が主に聖典の中だけから来ている」というのは間違っている。
●その反対に、宗教を信じている人間というのは、聖典の中に彼らの価値観を織り込んでしまうものであり、自分たちの持っている文化、人種、民族、そして政治的なレンズを通してそれを読み解くことになる。
●結局のところ、聖典というのは解釈されなければ無意味なものだ。聖典が意味を持つには、それを読んで解釈して意味を持たせる人間が必要となる。そして聖典の解釈という行為そのものの中には、自身の視点や偏見を持ち込むことも含まれてくるのだ。
●聖典の教えの永続性というのは、そこで述べられている真実というよりは、むしろそれが信じている人にどこまで柔軟に対応できるかという点にかかっている。
●たとえば旧約聖書はユダヤ人に対して「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(レビ記19章)と命令している。ところが同時に「アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない」(サムエル記上15章)と命じているのだ。
●イエス・キリストは弟子たちにたいして「もし、だれかがあなたの右の頬(ほお)を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」(マタイ第五章)と言っているのだが、同時に「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである」と述べている。そして「つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい」(ルカ22章)とも言っているのだ。
●コーランでも信者たちにたいして「 人を殺した者、地上で悪を働いたという理由もなく人を殺す者は、全人類を殺したのと同じである。人の生命を救う者は、全人類の生命を救ったのと同じである」(5章32)と言っているが、同時に「多神教徒を見付け次第殺し、またはこれを捕虜にし、拘禁し、また凡ての計略(を準備して)これを待ち伏せよ」(9章5)と命じている。
●これらの矛盾した命令をどのように扱うのかは、それを信じている人自身にかかっている。もしそれが暴力的な女嫌いの男性であれば、その考えを正当化する記述をいくつも聖典の中に見つけることができるだろう。
●ところがもしあなたが平和的かつ民主的なフェミニストであれば、そのような視点を支持する記述を聖典の中に見つけることができるはずだ。
●これらは実際面で、一体どのような意味を持つことになるのだろうか?
●第一に、宗教を信じている人々たちは、自分たちの宗教の中の過激主義者たちから目を逸らして「奴らは自分たちとは違う」と言うべきではない、ということだ。
●「イスラム国」の参加者たちはたしかにイスラム教徒である。なぜなら、彼ら自身がそう宣言しているからだ。
●彼らの宣言している宗教を否定することは、われわれが近代の世界の現実と宗教の教義をいかに調和させていくかという難しい問題に、我々自身を対処できなくさせてしまうからだ。
●ところがこの場合の犠牲者のほとんどはイスラム教徒自身であるということを考えると――イスラム国を非難して戦っている人々のほとんどが犠牲になっている――、この集団が自分で名乗っているアイデンティティは、グローバルな宗教としてのイスラム教についての論理的な表明としては使えないのだ。
●同時に、宗教に批判的な人々も信仰している人々を単純に一般化することは慎むべきだ。たしかに多くのイスラム教国では、女性の権利が男性ほど認められていない。
●ところがこの事実だけで「イスラム教はキリスト教やユダヤ教と比べてそもそも男尊女卑の宗教だ」とは言えない。なぜならイスラム教が多数派の国家では、女性のリーダーが選ばれることもあり、その反対に、アメリカではまだ女性大統領の誕生の機が熟しているかどうかを議論しているくらいだ。
●ビル・マーは、基本的な人権を侵害する宗教の習慣を非難した点で正しい。そして宗教コミュニティは、自分たちの宗教の過激主義的な解釈をさせないように手をうつべきである。
●ところが「宗教は文化の中に根ざしたものである」という事実に気づかないと――そして世界第二の規模を誇る宗教を一括りにして判断してしまうと――、それは単なる凝り固まった偏見としかならないのだ。
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なんだか「ケンカ両成敗」的な分析とも言えますが、宗教はそれが信仰されている土地や文化や慣習と密接なかかわりがあるという点には納得。
この議論はまだまだアメリカをはじめとする西洋諸国で続くんでしょうな。
今夜も生放送します。
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