「人間」を知ることの重要性

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おくやまです。

先週末のことですが、私が所属する
日本クラウゼヴィッツ学会で研究発表をしてきました。
その時に色々と学んだことを少し書きます。

今回の学会の発表研究テーマは、
クラウゼヴィッツの「摩擦」という概念について。

この「摩擦」というのは、『戦争論』の中で
クラウゼヴィッツが提唱したいくつかの概念の中でも、
いまだに戦略研究の中で
ホットな議論のネタとなっている1つであります。

この「摩擦」、実はそれほど難しい概念ではなく、
クラウゼヴィッツ自身は、

「戦争は、なかなか思った通りにいかない障害に満ちあふれている」

という風に説明しており、この「障害」のことを
「戦争における摩擦」(friktion im kriege)
と彼自身は呼んでおります。

実はこの「摩擦」という概念は
かなり応用の効くものでして、戦争だけでなく、
一般的なビジネスや、われわれの生活一般にも当てはまるもの
と言えるでしょう。

たとえば、われわれが普段通りに
会社や学校に行こうとしても、
電車が遅れたり事故で
道が混んでいたりするような場合があります。

これは「計画を思い通りに行かせてくれない、
思いがけないハプニングで起こる障害」という意味で
「摩擦」であると言えます。

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さて、この「摩擦」という概念なんですが、
これについてバリー・ワッツ(Barry D. Watts)
というアメリカの元軍人が、
この分野では非常に有名な論文を書いています。

http://www.clausewitz.com/readings/Watts-Friction3.pdf

今回の私の発表は、このワッツの論文の内容の概略を、
議論の叩き台として発表・説明するものでした。

このワッツの論文のテーマは極めて単純・明確。
どういうことかというと、

「クラウゼヴィッツの摩擦という概念の重要性は、
いくら先端テクノロジーの発展をもってしても、未来永劫残るものである」

というものです。

このワッツの立場というのは、いうなれば、
「摩擦」というクラウゼヴィッツの概念を強固に支持する
「クラウゼヴィッツ主義者」の立場なんですね。

米軍は戦争を遂行する際に発生する
さまざまな「摩擦」を、センサーや無人機などの
最新テクノロジーをつかって解消しようとする傾向が多いわけですが、
ワッツの議論はこれに水を差すようなものと言えるでしょう

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ではワッツは、クラウゼヴィッツの「摩擦の重要性が
未来永劫変わらない理由」を
どのように説明して論じているんでしょうか?

彼はこの理由を、カオス理論や物理学、
それに進化生物学や軍事組織の基本的な構造など、
実に様々な分野の知見や知識を引っ張ってきて論じます。

論文としては、このような広い知見による理由付け
というのは見事だなぁと思ったわけですが、
実は論文のメインテーマと同じように、
「摩擦」がなくならないとするワッツの論拠は一貫しております。

それは、「人間」という要素です。

いきなり「人間」といわれても、「なんのこっちゃ!???」
かもしれませんが、これはつまり、戦争の遂行には
「摩擦」を発生させる「人間」が構造的に組み込まれている。

つまり、人間が関わってくるからには、
絶対に「摩擦」はなくならないというわけです。

たとえば、米軍は無人機を大量に使って、
タリバンをはじめとするイスラム原理主義者のような
"アメリカが認定"する「テロリスト」たちを
精密爆撃によるピンポイントで次々と狙って殺害しております。

アメリカくらいの(衛星や無人機などを使った)
監視能力の高さや攻撃手段の精密度が
最高レベルのものであっても、
それを実行する際には、ものごとを判断する「人間」がいるので、
誤爆のような「副次的な被害」(コラテラル・ダメージ)は
絶対になくならない、ということです

人間の限界が生じさせている「摩擦」というのは、
いくらテクノロジーが発展したとしても克服できない
というワッツの議論は、かなり説得力のあるものだと言えるでしょう。

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話は飛びますが、私は最近、
いわゆる「ソーシャルメディア」について書かれた、
ある興味深い本を読んでおります。

参照:
▼トム・スタンデージ著「ソーシャルメディアの2千年」
(http://geopoli.exblog.jp/21408411/)

この本の極めて面白い指摘としてあったのは、

「近年インターネットを通じて爆発的に広まった
 ソーシャルメディアというものは、実は決して新しいものではない」

という意外な結論です。

どういうことかというと、
19世紀から盛り上がってきた「マスメディア」の以前の時代の
メディアの歴史を考えてみると、人間というのは
実に様々な手段(石版、手紙、パンフレット)を使って、
常に「ソーシャルメディア」と同じようなことを展開してきたというのです。

この本の著者の究極の結論も、

「使っているテクノロジーは違えど、
 人間のやることは過去も未来も変わらない」

という、まるでワッツと瓜二つのようなもの。

われわれはどうも新しいテクノロジーや技術というものに
目を奪われがちですが、どうもものごとの本質は
そこにはないんじゃないでしょうか。

カギはあくまでも「人間」なのであって、
この未熟で不完全なために「摩擦」を発生させる存在を
どこまで織り込んで戦略を考えていけるのか・・・・

私は最近、自分の先生である戦略家のコリン・グレイと、
ビジネス論の大家であるピーター・ドラッカーという
分野の異なる両者の格言を比較した
「国家戦略とビジネス戦略を同時に学ぶ」というCDを作ったのですが、
両者が強調していたのも「人間」を知ることの重要性でした。

▼「国家戦略とビジネス戦略を同時に学ぶ」CD(戦略の階層2)
 http://www.realist.jp/gvsd.html

 このCDの中でも解説しておりますが、
 コリン・グレイは、自著『戦略の格言』において、
 「格言22.人間が最も重要である」
 として取り上げるほど、この点を強調しています。

戦略論とテクノロジー論の二つの文献を読みながら、
私はあらためて「戦略は人間である」という基本的なことを、
じっくり考え込んでしまいました。

( おくやま )