野田稔・伊藤真の「社会人材学舎」

野田稔と伊藤真の「社会人材学舎」VOL.5 NO.1

2014/06/02 06:00 投稿

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野田稔・伊藤真の「社会人材学舎」VOL.5 NO.1

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コンテンツ

今週のキーワード
「報道自由度」

対談VOL.5
平野洋一郎氏 vs. 野田稔

安定したら、ベンチャーじゃない
世界で通用しなければ、意味がない
挑戦を止めたら、人生はつまらない

第1回 5年後を見据えた目標に向かって、独自の製品を開発する

政治・行政にやり甲斐はあるか?
6月のテーマ:日本国憲法は果たして変えるべきなのか
伊藤 真
第1回 日本国憲法はもっぱら日本人の手によって創られた

粋に生きる
6月の主任:「遠峰あこ」
第1回 電気仕掛けの音楽から、最もアナログな世界へ

誌上講座
テーマ4 何が究極の楽観主義を生むのだろうか
浜田正幸
第3回:どうしたら楽観主義者になれるのだろうか

Change the Life“挑戦の軌跡”
女子力をビジネスに活かす! 二人で組んだしなやかな経
――シルキースタイル
第1回 いい商品を、売れる商品にする!

連載コラム
より良く生きる術
釈 正輪
第17回 千日の中の1日



今週のキーワード

「報道自由度」

 今年、5月に国際的な人権監視団体であるフリーダムハウスが「世界の報道の自由度ランキング」(2013年度)を公表した。

 その中で、日本は、全197カ国の中、何と42位。前回が40位だったから、たった2ランクではあるが、順位を下げた。特定秘密保護法の問題も含まれているのだろうが、前回も40位だったのだから、理由がそれだけでないことは確かだ。

 アメリカはどうかというと、CIA元職員のエドワード・スノーデン氏の暴露によって、当局による大規模な個人情報収集・監視活動が発覚し、話題になったにもかかわらず、確かにその件で順位を下げたのだが、それでも30位(前年は23位)だ。日本よりもはるかにいい。

 これはなぜか。もちろん、この発表にどれだけの信ぴょう性があるか、何をもって評価しているのかという問題はあるが、海外からはそう思われているというだけでも、その意味は大きいし、「なるほどそんなものか」と思えてしまうところが情けない。

 大きな問題は、記者クラブの存在だと指摘される。つまりは、当局による便宜、馴れ合い体質がその理由というわけだ。

 昨今では、ネットメディアも力をつけてきた。市民メディアもその産声を上げた。しかし、まだまだ、いわゆるマスコミと呼ばれるメディア各社の存在は大きい。

 にもかかわらず、記者や編集者の質の低下を多方面から指摘される。昨今のメディアを観察していれば、その情けなさがよくわかる。

 長いものに巻かれ、弱者の側に立たない。政府にたてつかない。たてつくメディアは情報不足で感情論になりがちだ。

 記者クラブはすべて悪いとも思わないが、記者クラブで得られる情報はいわば大本営発表だ。それだけで情報を下に流す、流しソーメンのような体制はもはや機能不全に陥っていると思ったほうがいい。



対談VOL.5
平野洋一郎氏 vs. 野田稔

安定したら、ベンチャーじゃない
世界で通用しなければ、意味がない
挑戦を止めたら、人生はつまらない

本誌の特集は、(社)社会人材学舎の代表理事である野田稔、伊藤真をホストとし、毎回多彩なゲストをお招きしてお送りする対談をベースに展開していきます。ゲストとの対談に加え、その方の生き様や、その方が率いる企業の歴史、理念などに関する記事を交え、原則として4回(すなわち一月)に分けてご紹介していきます。

今月のゲストは、インフォテリア株式会社の創業者、平野洋一郎氏です。同社は、昨年9月1日に、創業15周年を迎えた会社ですが、そのベンチャースピリッツは衰えることを知りません。平野社長は、「安定」を嫌います。安定とは、変化しない、つまりは成長しないということを意味するからです。1998年に六畳一間のアパートからスタートしたインフォテリアは、海外4拠点に子会社を持つ会社になりましたが、平野社長の理想にはまだほど遠いのです。永遠のITベンチャー、インフォテリアの、まずは黎明期のストーリーからご紹介します。


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第1回 5年後を見据えた目標に向かって、
      独自の製品を開発する


プログラマーが歩んだ11年間の修業の旅

 インフォテリアの代表取締役社長/CEOの平野洋一郎氏は、その昔、有名なプログラマーであり、日本のパーソナルコンピュータ黎明期を支えた人間の一人だ。1980年代に一世を風靡したマイコン・ソフトハウスの一つに、熊本のキャリーラボがある。平野氏は、そこでキャリーラボ七人衆と呼ばれる主力プログラマーの一人だった。

 若い方々には馴染みがないであろう、当時の話からこの物語をスタートさせたい。

 平野氏は、日本語ワープロソフト「JET-8801A」を開発したことで知られる。このソフトは当時、大ヒットした。NECのベストセラーパソコンだったPC-8801の定番ソフトとなったほどだ。

 順調に見えたキャリーラボであったが、80年代後半に分裂してしまう。8ビットマシンから16ビットマシンへと、時代が移行しつつあったころだ。開発陣は当然、将来を見据えた16ビットパソコン用のソフトウエアの開発を目指そうと勢い込んだ。

 しかし、社長と営業サイドは、「時代に先行して今後売れる製品を開発する」よりも、「今稼げる商品を作って稼いで、会社を安定させる」ことを選んだ。両者とも正論だけに、そこに生まれた溝は埋まらなかった。そのために、夢を抱く若きエンジニアたちはほぼ全員が退社を決意する。

 平野氏も87年にキャリーラボを退社、ロータスに入社する。

「その時はすでに、近い将来に自分で会社を作ろうと思っていました。ロータスには、そのための勉強をしようと思って入ったのです」(平野氏、以下同)

 キャリーラボではプログラマーとしての腕を磨いた。マネジャーの経験も積んだ。しかし、自分でモノを売る営業経験が全くなかった。マーケティングもわからなかった。対立を通じて、自分の思う製品を世に出すためには売る術も知らなくてはならないと痛感した。

 そこで営業経験を積みたいと当時、日本に多く進出してきた外資系のソフトウエアハウスを回った。その中で当時ロータスの社長であった菊池三郎氏だけが、マーケティングの仕事をやってみないかと言ってくれた。

「その他の会社からは開発者としてならばウェルカムだが、営業としてはいらないと言われました。当時彼らは日本語処理の技術がほしかった。私は日本語ワープロを開発していたわけですから、その道に進むのであれば、外資系からはニーズがあったわけです。しかし、それは嫌だと言うと、『だったらいいよ』と言われました(笑)」

 3年間の修業と考えた。それを終えたら、九州に戻って起業しようと決意していたそうだ。その言葉を聞いて、平野氏を待っている昔の仲間もいた。しかし彼は、結局約11年間、ロータスに留まることになる。

 ロータスで3年経ったときに、平野氏は実際に辞表を書くつもりだった。彼はそれまで日本における商品企画・マーケティングを担当していた。ところが、「さて、辞めようか」という時期に、米国ボストンにある本社直轄のインターナショナル・プランニングチームに入らないかという誘いを受けた。

 当時ロータスは製品の開発体制を大幅に変革した。それまでは米国で製品をつくって、それを各国で日本語版とかドイツ語版などに改造する方式を採っていた。しかし、海外の売上が米国内の売上を超えるようになったのを受けて、考え方を変えた。

 たとえば日本では表計算に罫線がないと使い勝手が悪い。だから、日本語版に必要な機能として、日本語版ロータス123では日本仕様として罫線機能を組み込んだ。それがその後、アジアの他の国にも波及した。そうした、各国に必要な開発をそれぞれで行っているのは無駄だと考えるようになったのだ。むしろ、最初から世界版を開発するほうが効率的だ。そのために、各国で商品企画を行っていた人材を一つに束ねたのだ。

「世界向けの商品企画、マーケティングを学べるわけです。これはチャンスだと思いました。それで九州で私が帰ることを期待していた仲間には謝って、インターナショナル・プランニング・チームに移りました」

 アジア担当だったので、そのまま日本支社に勤務したが、毎月のように米国本社や他の国に出張した。3年半ほど経って、世界をターゲットとした企画や開発も軌道に乗ってきたときに、今度は国内のマーケティング全般をやってみないかといわれる。もう、待っている人もいなかったので、さらにロータスでの勤務を延長した。

 そして95年、IBMがロータスを買収。ベンチャー気質が色濃く残るロータスと、スーツが似合うIBMでは全く文化が違う。今度こそ本当に、辞表を書こうと考えていた。ところが、本社のマネジャーを集めたあるミーティングに、ヘリコプターに乗ってIBM社長のルー・ガースナーが現れた。そして、「私は、ロータスのブランド、カルチャー、方法論を大切にする。そうでなければ買収をした意味がない。だから、皆さんのやり方を教えてほしい」といった趣旨のスピーチを行ったのだ。その15分ほどのスピーチを、平野氏は一番前の席で聞いていた。そして内心思った。「これはお手並み拝見といこうじゃないか」と。

5年後を見つめたら、今何をすべきかがわかる

 平野氏は3年間の営業経験を積んで、再びエンジニアに戻るつもりだった。しかし、11年もマーケティングの世界にいたことで、もはやエンジニアに戻ることはできなくなっていた。アイデアはあっても、自分で最先端の技術を駆使してそれを作ることはもはやできない。そこで彼は、同じくロータスで開発部長を務めていた北原淑行氏に目をつけ、二人で起業しようと誘うことになる。

「外資系ソフトウエアハウスの開発というのは、基本的に日本語化なのです。いわば翻訳であって、足りないものを少し付け足すとか、バグ取りなどを行って、日本仕様に品質を高めるのが仕事です。正直、エンジニアとしてはそれほど創造性が要求される仕事ではない。ところが北原は、与えられた仕事をしっかりこなしながら、本社には黙って独自の開発を行っていたのです」

 試作品が出来上がると本社に持ち込む。実際に目に見える製品のプロトタイプがあると強い。それで製品化までこぎつけたケースもあった。たとえば、北原氏はノーツをブラウザから使うことのできる製品を開発した。最初は日本だけでそれを製品化したが、そのうち本社にも認められて、全世界プロジェクトになった。

「そんなふうに、自分の思いから開発を行って、実際に目に見えるものをつくって、本社にも認めさせる。そんなことを北原はしていたのです。これは一緒に仕事をしていても、すごく楽しいことでした。だからパートナーとしては、北原が最適でした」

 では、起業するとして、その会社の製品は何か。いかなるビジネスモデルを描くことができるのか。

 平野氏が、ロータス時代に学んだ企画の要諦は、“常に5年後を考えろ”というものだ。
「一般的に企画というものは、1年後からせいぜい2年後のプランニングをしますが、その際に、2年後のことを考えるのではなく、初めに5年後のことを考えるわけです。5年後の姿をできるだけ具体的にイメージして、2年後のプランニングであれば、今度はその中間地点をイメージして計画するという方法を取るわけです。上司に常にそういわれていたので、癖になりました」

 当時は、インターネットが普及の気配を見せ始めた時期だった。平野氏はノーツの将来戦略を考えていた。当時のソフトウエアベンダーは皆そうだが、自社のソフトウエアで全部門、全社、グループ会社を統一してもらうという戦略だった。たとえばノーツに統一してもらえれば、生産性が飛躍的にアップするというセールストークだった。

 ところが、インターネットが普及し始めると、インターネットを介せば、その先も物理的にはつながってしまう。顧客企業とも、仕入先ともつながる。では、顧客企業や仕入れ先までソフトウエアを統一してもらえるかというと、それは無理だ。相手はマイクロソフトやサイボウズなど競合製品を導入しているかもしれないからだ。

 グループウェアは皆、同じような機能を有している。似ているのに、メーカーが違うとつながらない。メールはつながるが、文書すら共有できない。それでは、インターネットの時代の姿ではないと平野氏は考えた。ソフトウエアが違っていても、システム同士で会話ができて、データや価値を共有できるべきなのだと。

「それを考えるのが私のミッションではなかったのですが、当時、ノーツは圧倒的なシェアを持っていたので、ノーツがすべてのデータ仕様を公開して標準化すれば、世界中がハッピーになれると本社に提案してみたのです。まあ、最初からそんな提案が通るとは思いませんでしたが、案の定、却下されました。市場シェアナンバーワンの戦略としては当然ですね。それで、これは独立してやるしかないと考えたわけです。違うアプリケーションでもソフト同士が会話できる、そんな共通言語が必要だと思いました」

 そして、1996年の終わりころに、XMLという新しい言語が企画され始めていた。平野氏は個人的な興味も手伝って、その動向をウオッチし始めた。そして98年2月10日に、World Wide Web Consortium(W3C)がいよいよXML1.0を勧告(策定)した。

「これが使いものになるかどうか、一緒に見極めようと、北原に言いました。僕はあらゆるデータを共有するようにしたかったのですが、当時XMLは文書をインターネットで共有するための言語でした。だから、北原に、この言語でそれ以上のことができるものかどうかを吟味してもらったのです。そしたら北原が、『うん、これは使える。いいと思う』と言ってくれたのです」

ロータスが育んだインフォテリア七人衆の結成

 もちろん、北原氏にはロータスに対するロイヤルティもあった。非常に伸びている会社であったし、儲かってもいたし、社内の雰囲気もよかった。

「確かに、すごくいい会社でした。しかも北原は重用されていました。担当エンジニアから、部長にまで上り詰めていました。私もそうでしたが、退職を決めてから北原も辞めるまでに半年かかりました」

 それでも北原氏は、勝手に、フリーハンドで開発に従事する輩であったから、自分がおもしろいと思う開発を、思う存分やりたいという気持ちが強かったのだろう。だから、「説得に苦労したという記憶はない。むしろ、アイデアを一緒に話合っていた」と平野氏は言う。

 それは多分、それまでに存分に夢を語り合ってきたからだろう。しかも、最初はこっそりと、次第に堂々と、まさに確信犯的に、独自の開発をロータスという場で行ってきた。北原氏のそうした動きに呼応して、平野氏もマーケティング的な側面からの支援を惜しまなかった。出来上がったソフトウエアを、本社にかけ合って意味のある製品にする役目を買って出た。

 ロータスという会社は当時、勢いがよく、余裕のある会社だった。だからそうした動きをも許容する懐の深さがあった。だから、ある意味ではロータスが、インフォテリアを生み出したという言い方もできるのかもしれない。事実、多摩川園の沼部という地のアパートの一室で起業したインフォテリアに、当初ロータスの会議室に無償で間借りさせるという度量の深さも見せた。

 人材についても、結果としてロータスという場が大きくかかわっている。

 株式会社を作るには、三人の取締役が必要だった。だから、同じくロータスの開発のコアメンバーであった古谷和雄氏を誘った。彼はロータスを辞めて、フリーのエンジニアになる予定を立てていた。

「だったら、しばらく一緒にやらないか」と北原氏が誘ったそうだ。二人の掲げた夢にほだされて、古谷氏は自らの計画をしばし先に延ばしてくれたという。ちなみに古谷氏はその後、当初の予定どおり、インフォテリアも退職してフリーのエンジニアとしての道を選んだ。

 エンジニアは、北原氏と古谷氏を含めて7人を集めた。元々はロータス出身という人材も多かったが、業界で「この人」という人材にピンポイントで声をかけた。平野氏のアシスタントも、先にロータスを辞めていた以前のアシスタントで、「ちょっと手伝ってほしい」と声をかけたという。最初の営業担当者も、5年以上前にロータスを辞めて、別の会社で営業をしていた人間に来てもらった。

 それだけの人間が結集できたのには、どうやら二つの理由があるようだ。一つは、全員が、ロータスの内外で平野氏、あるいは北原氏、いずれかと一緒に働いたなどの接点を持っていたことだ。最初の営業担当者の場合は、5年のブランクがあるものの、平野氏は彼がロータスを辞めた後も、たまに会っていたという。彼らは、平野・北原両氏に巻き込まれる下地を有していたということになる。なかでもエンジニアは、「北原さんと仕事ができる」ことに魅力を感じたのだろうと、平野社長は推察する。
 もう一つは、古谷氏が感じたのと同じインフォテリアの夢に共感したからだろう。


*次週に続く



政治・行政にやり甲斐はあるか?

政治家、政治家の秘書、知事や市町村長、官僚・役人、政党職員……。
日本の公共セクターの各現場をさまざまな角度から掘り下げて取材、紹介する。
政治や行政のやり甲斐はどこにあるのか、日本の政治の何が問題なのか。
あるいは憲法や復興、未来に向けたこの国のグランドデザインについて、私たちはどのように考えるべきなのか。

6月のテーマ:日本国憲法は果たして変えるべきなのか

伊藤 真

第1回 日本国憲法はもっぱら日本人の手によって作られた

なぜマッカーサー草案は作られたのか

 日本国憲法は、占領国であったアメリカに押し付けられたものだという意見をいまだによく聞く。本当にそうなのか、その評価は個人個人で行えばいいが、日本国憲法の制定の経緯を歴史的事実として知っておくことは必要なことだと思う。

 第二次世界大戦、15年戦争とも言うが、あの戦争で日本は負ける。そして、1945年8月14日にポツダム宣言を受諾する。その翌日、正午に、玉音放送として、天皇陛下がその事実をラジオで国民に説明した。

 ポツダム宣言の中に、わかりやすく言えば、「民主的な国家にする」という条項が含まれていた。そのためには、明治憲法の改正が必要だと考えられるようになり、45年10月、政府に憲法改正のための委員会が設立された。

 同委員会の委員長には松本烝治国務大臣が就任した。松本氏は、商法学者であるが、1945年に幣原喜重郎内閣の組閣に際して、憲法改正担当の国務大臣として入閣、自ら中心となって憲法草案(松本試案)を作成した。その際に、松本大臣はいくつかの重要なポイントを前提に置いていた。

 最大のポイントは、天皇が統治権を統合して一手に掌握、つまり総攬(そうらん)するという部分には変更を加えないというものだった。つまり、天皇が国を統治するという国家の体制は維持する。議会の意向とは関係なく立法などを行える権限である天皇大権事項を削減したり、人権規定を若干補強したりなどと手を加えるが、基本的には天皇主権は維持する。その前提で明治憲法改正のための政府案が作られ、準備されていった。

 マッカーサーはまずは日本政府に任せようと考えていたので、何の指示も出さなかった。日本が独自に作る改正案を待っていた。ところが翌年の2月1日に毎日新聞が政府案をスクープする。それで、その中身が知られることになった。

 GHQも当然、松本案の概要を知ることになる。マッカーサーはあまりに保守的なその内容に驚いて、もはや日本政府に任せてはおけないと考え、憲法草案のための独自のたたき台づくりを民政局に指示した。

 民政局は25人ぐらいのメンバーで、弁護士や学者など日本通のメンバーから構成されていた。局次長であったケーディス大佐の下で、立法権の部分、行政権の部分、司法権の部分といった7つの委員会に分かれて、草案のたたき台づくりが始まった。2月4日のことだ。

 たとえば人権委員会は三人のメンバーで構成されていたが、その中にはベアテ・シロタ・ゴードンさんという22歳の女性も含まれていた。彼女は流暢な日本語とタイム誌で培われたリサーチャーとしての能力を兼ね備えていたそうだ。19歳で大学を卒業し、6カ国語を話すことができるという才媛だった。

 そうした人材も含めながら、彼らが草案のたたき台を作るのだが、たった9日間で作り、2月13日に、「このたたき台の基で、きちっとした草案を作ってほしい」と、これを日本政府に提示する。

 

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